大慢心の者は、いざという時に敵に従う(御書p.287、通解)

2011年12月29日(木)更新:5
・斧節『乱脈経理 創価学会 vs. 国税庁の暗闇ドキュメント』読了 http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111224/
日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等(御書960ページ)
●惰弱になるな!増上慢になるな!愚かな虚栄に惑わされるな!これが、仏法の厳しき戒めである。―師匠
本来なら師をお護りするべき立場にいるはずの人が、正義も信念もなく、大悪に迎合し、学会に向かって吠えるとは何事ですか!!先生は世間の失(とが)など一切ありません!むしろ、三類の強敵から迫害されることは、池田先生こそが経文身読の法華経の行者の証明です!御本尊と先生に謝罪してください!
以下の通り、その悪書の薄汚い意図は明白です!

●良観上人らが弘めている法は、日蓮からの論難を免れることができず、そのため、すでに悪法であることが明らかになってしまった。そのため彼らは、自分たちの邪義を隠そうとして、諸国の守護や地頭、雑人(鎌倉に置かれ、諸国の治安監察と訴訟の裁きをした役人)らを扇動して、『日蓮ならびに弟子たちは、阿弥陀仏を火に入れ、水に流したりする。あなた方の大怨敵である』と言いたてたのである。そして『首を切れ、所領から追い出せ』などと勧めたため、日蓮の身には傷をこうむり、弟子等を殺され傷つけられたことは数百人に及ぶ。これは、ひとえに良観、念阿弥陀仏、道阿弥陀仏などの“上人”の大妄語(大うそ)から出たことである。心ある人々は、(このことを知って)どれほど驚き、恐ろしく思うことであろう (御書182ページ、通解)
●私がこのたび受けた流罪のとがめには、世間の罪は一分(いちぶん)もない(御書958ページ、通解)

柳原滋雄コラム日記 2011/11/23(Wed) 堕ちた元委員長 125 矢野絢也が残すべき「本当の懺悔録」】
 元政治家・矢野絢也が転落した軌跡はあまりに明白である。おおいなる理想を胸に抱き、大きな期待を背負って国会議事堂に乗り込んだのはいいものの、腐敗した与党政治家集団の刷新・浄化に成果をあげるどころか、早い時期にその中に“取り込まれて”しまった。その帰結が、1988・89年前後の一連の公明党の大不祥事であり、矢野自身の明電工疑惑であった。政治家に影響力を及ぼしたいと考える実業家からワイロ同然の株券を得ていた不明朗な金銭スキャンダル事件であり、党委員長の矢野自身がそうした行為に直接的に関わっていたことが判明し、世間を愕然とさせた事件である。 矢野絢也は当然ながら責任をとらされ、党委員長職をクビになり、政治家をやがて引退した。だが、上記のような“挫折”を味わった矢野本人は、まじめに反省することはなく、既存の政治家集団と同じく、麹町に事務所を開設するなどして、政治家気取りの生活をつづけた。政治評論家として、政治の浄化とはおよそ関係のない私利私欲ぶりを継続し、恥の上塗りを重ねた。現在は、過去の自身の不祥事を覆い隠そうとするかのように、教団側にすべてを責任転嫁し、教団攻撃に躍起となっている。
 矢野は自身で細かく記載してきたという国会手帳をもとに、自身がいかに「転落の軌跡」を歩んだのか、さらに今後の公明党議員のためにどのように心がけたらミイラとりがミイラにならずに済むのか、自身の体験をもとに赤裸々に記述すべきであろう。それが同人にとっての≪唯一の罪滅ぼし≫ともいえる行為であり、後世に価値を生む行動ともいえよう。だが現状は正反対だ。教団にすべての責任をなすりつけるための「告発」と称する活動に躍起となっており、本質的な意味での自己の≪内省の視点≫は微塵も感じられない。
 ひとりの政治家としての矢野絢也を俯瞰して見てみると、その行動と動機は驚くほどに「単純」である。例えていえば、犯罪者が自己の犯罪を必死で隠そうとする苦しまぎれの行為にそっくりだ。思惑だらけの行動をもっともらしい言葉でいかに隠そうとしたところで、その背景にあるものは明瞭に浮き彫りになってくる。
 矢野が書くべきは、自分自身の「懺悔録」なのだ。結局はひとりの人間として、あるいはひとりの元政治家として、何の反省もないということだ。「開き直り」の人生そのものといってよい。