一たびこの文を拝せば涙数々降る後代の弟子等当に心腑に染むべきなり

2011年12月30日(金)更新:4
・斧節『反証可能性について』 http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111225/
横から失礼します。
>>@氏家さん『反証可能性とは緊張感。そしていつ破られてもいいという覚悟。緊張と覚悟が喪失すると盲信の狂信』
のツィートに対して、小野さんは
『「智者に我義やぶられずば用いじとなり」というのがそれ。』
と返信していますが、その捉え方は違います。
この大事な御文は、大聖人の法義が誤りでない限り、、日本国の位を譲ろうという「誘惑」や、父母の頭を刎(は)ねるという「脅迫」にも、断じて従うことはないという、大聖人の“不退転の御覚悟”を示されたものであり、また、大聖人の教義は、「いかなる批判にも破れることはないとのご確信」を表明されたものです。
この後に、大聖人はこう述べられています。
『“我は日本の柱となろう、我は日本の眼目となろう、我は日本の大船となろう”との一切衆生救済の誓願はどんなことがあっても破ることはない』と。
御自分がどうなろとも、末法の民衆救済はやりとげるのだという、大聖人様の御決意なんです!一切衆生を救おうという大誓願なんです!
日寛上人は、この御聖訓を「一たびこの文を拝せば涙数々(しばしば)降(くだ)る。後代の弟子等、当(まさ)に心腑(しんぷ)に染むべきなり」(文段集205ページ)と言われています。
まさに今、先生のこの大誓願の御心を想う時、凡夫の私がこれ以上表現できませんが、ただただ、先生は本当に偉大な師匠なんです!!


・斧節『本源的な問い』 http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111228/
>>教団が最も毛嫌いするのは懐疑や不信で、教義が「考える力を奪う」機能として働くためだ。それゆえ教義は信者を奴隷化する。(小野さん)
学会は永遠に御書根本です!
●「君たちは、物事を疑いの眼で見ている。学問研究は、それでいいかもしれない。しかし、日蓮仏法はそうではいけない。一言一句、仏の金言として、『その通りだ』『その通りだ』という姿勢で読まなければいけない」―師匠 (聖教新聞 2011-12-29)

>>「智者に我義やぶられずば用いじとなり」を反証可能性に結びつけたのは、私にとって悟りに近いのだが、これが理解できる人は一人か二人しかいないという悲しい現実がある。(小野さん)
●大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず(御書232ページ)
●私は、この御文こそ、古今東西で、もっとも深い「法華経論」だと思います。絶対に軽々(けいけい)に読んではならない、と思います。また「日蓮と同意」の広布への戦いがなければ、読めるはずもありません。 (『法華経智慧 第6巻』池田大作