己の命をかけぬものは、何も勝ち取ることはできない―シラー

2012年2月15日(水)更新:2
・斧節『殉教』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20120213/
>>殉教を強いる宗教は邪教である。第六天の魔王の所業に他ならない。鎌倉時代は人の命が軽かったことを踏まえた上で、日蓮が殉教を勧めたかどうかを厳しく吟味する必要があろう。(小野さん)
●かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり(御書1355ページ)!
●不惜身命といっても、決して命を“粗末にする”ことではありません。 (『御書と師弟 1』池田大作、以下同)
●大聖人が「撰時抄」で示された「師弟不二の道」。「破邪顕正の道」。そして「一生成仏の道」。それは、まさしく「不惜身命の道」なのです。
 不惜身命に徹し抜けば、必ず勝利の現証が出ます。それが「心みよ」(御書291ページ)の大確信です。
 この御聖訓に寸分違わず、初代・牧口先生、二代・戸田先生は、軍部政府の弾圧にも屈することなく「死身弘法」を貫かれた。第三代の私も、この初代・二代の精神のままに三類の強敵と戦い抜いてきました。この三代の仏法勝負の現証が、今日の学会の大発展にほかなりません。
●誰でも、自分の命は何よりも大事です。しかし、わが身を惜しむあまり、他人を傷つけたり、自分の命までも無駄にしてしまう場合が、あまりにも多い。戸田先生が言われた通り、まさに「人間の業」です。
●本来、自分の命を捧げて貫く“道”をもった人は、自分や他人の命の尊さを心から実感できるものです。逆に、自分を律し高める“道”をもたない人は、エゴや欲望や臆病などの激流に翻弄され、些細なことで虚しく命を落としてしまいかねない。
●要するに、わが命をかけて悔いのない、不惜身命にふさわしい、人類の境涯を高めゆく無上道――それが仏法です。宿縁深く、この仏法に巡り合えたのだから、弟子たちよ、不惜身命で、命がけで心みよ! こう御聖訓には結論されているのです。
●三千大千世界という大宇宙に敷きつめた財宝よりも、大切な一日の生命である。だからこそ、「浅き事」のために浪費してはならない。「大事の仏法」のために、命を惜しまず生き抜くのです。
 妙法は、全人類を善の方向へ導く法則です。その妙法に全生命を捧げる生き方は、どれほど深遠で、偉大で、尊いものでありましょうか。
●不惜身命とは、人に強いることではありません。自分が真剣かどうか、一人立つかどうかです。
●身命を惜しまず、法を護り、師を護り、同志を護る。それが一番、尊い人生です。宇宙で最も尊い人間性の真髄である。
●芸術でも、学問・教育でも、スポーツでも、政治でも事業でも── 一流の人物は皆、「命がけ」です。「不惜身命」です。血を吐くような思いで、自己の限界に挑む精進を重ねているものです。わが生命を注ぎ込み、努力に努力を重ねてこそ、後世に残る偉大な事業や作品が出来上がるのです。
●恩師の大闘争を思えばどんな苦難も耐えられる。 (「若き君へ」 聖教新聞 2012-02-15)