共に泣き、支え、歩み続ける私たちでありたい

2012年3月11日(日)更新:4
【名字の言】
 あの日から1年。被災された壮年が語っていた。「片づげでばっかの1年。前へながなが進めね」。「負げね」という気丈な決意も、胸の奥から染み出す悲しみも、どちらも真実の心の声だろう。さまざまな思いを抱きながらの一歩一歩。「春」の到来を願わずにいられない
 阪神・淡路大震災以来、「心のケア」という言葉が広まった。ケアの言葉の起源は、数千年前のゲルマン系言語にさかのぼるという。「悲しみのあまり叫びをあげる」こと。困難に直面する人を見て自分自身が声をあげ、悲しむことをいう。仏法でいう「同苦」に通じるのだろう
 「御心のうちをしはかるこそなみだもとまり候はね」(御書1509ページ)。「おもひやり候へば涙かきあへられず」(同1585ページ)。御書のいたるところ、涙の痕が見える。家族を亡くした人の心中を「推し量り」、戦火や病に亡くなった人々に思いを馳せ、同苦する。これが日蓮大聖人であられた
 自ら被災しつつも、復興支援に尽力する方の言葉が心に残る。「支援は、自分は上にいて、困っている人を引き上げることではない。下から支えることです」 共に泣き、支え、歩み続ける私たちでありたい。その向こうに、「福光の春」が輝くに違いない。 (聖教新聞 2012-03-11)