新しき人類意識の夜明けを 平和と共生こそ現代の宗教の存在意義

2012年3月26日(月)更新:2
東洋哲学研究所シンポジウム 創立者のメッセージ】
 21世紀の現代世界は、情報・通信革命の時代を迎え、経済や科学技術のグローバリゼーションの進展の中で、人類は相互依存の度を一層深めております。
 イギリス歴史学協会会長を歴任したジェフリー・バラクラフは『世界歴史地図』を著し、人類史を七つの時期に分け、世界はヨーロッパ優位の時代から「全地球文明の時代」に至るとして、新しい時代区分を「地球文明」と命名しました。
 比較文明学者の吉澤五郎教授は、「バラクラフの『世界歴史地図』の構想は、当初、トインビーとともに練られたものである。新しい比較文明論の形成にとって、トインビーの知的遺産と先導性は特筆されるものであろう」(吉澤五郎『世界史の回廊』世界思想社)と述べております。それは、1973年頃のこととされていますので、私とトインビー博士との対談が続けられている最中のことになりましょう。
 翻って、今日の科学技術社会において、全人類的な「地球文明」への大きな課題は「持続可能性」であり、大別すれば次の三つの領域にわたる問題郡として顕在化しております。
 まず、第一の領域は、地球温暖化現象に代表される地球環境問題郡であります。オゾン層の破壊、海洋汚染、砂漠化の進行、熱帯雨林の破壊、絶滅が危惧される生物種が増えていることをはじめ、原子力発電を含むエネルギー問題が深く関わります。
 第二の領域は、政治・社会・経済の問題郡であり、核拡散・生物化学兵器の問題から、民族・人種間等の紛争の続発であります。これは、国境を超えた紛争へと激化していく可能性があります。
 また、貧困・飢餓・人種・差別・難民問題と、グローバルなマモニズム(拝金主義)、いわゆる「強欲資本主義」がもたらす格差問題や金融危機も挙げられます。
 第三の領域として、これら二つの領域の問題郡を生み出す、人間の精神性の危機、倫理性・道徳性の低下、暴力性・貪欲性・根源的エゴイズムの跋扈(ばっこ)があります。
 これらの山積する諸問題に直面する人類社会にとって、第一の領域として挙げた地球環境問題を乗り越えつつ「大自然との共生」を図ること、第二の領域の政治・社会・経済の諸問題を乗り越えながら「平和共存」を可能にすること、そして、その基盤となる第三の領域への取り組み、すなわち「人間の精神の変革」が、今ほど求められている時はありません。
 自然との共生や人種の平和共存を脅かしてきた人間自身のエゴイズム、暴力性等の悪心をとどめ、利他心・慈悲力等の善心を強化しつつ、新たな精神性の機軸を求め、倫理性の向上を目覚さねばなりません。
 トインビー博士も、私との対談の中で「われわれの技術と倫理の格差は、かつてなかったほど大きく開いています」「人間の尊厳の確立がなされるのは、倫理の分野以外にありません」と述べ、それは、人間の行動が「貪欲性や侵略性に支配されず、慈悲と愛を基調」とすることによって決定づけられると強調されていました。
 そうした現代物質文明に、「人間の尊厳」「生命の尊厳」の思想を打ち立てゆく新しき精神文明の形成は、持続可能な「地球文明」の創出に不可欠になってきています。
 未来の「地球文明」において、宗教は、人類心を涵養(かんよう)し、善心を強化し、倫理性・精神性を高め、深める“主体的役割”を担うことが期待されています。第三の領域である「人間の精神の変革」を基盤として、第一の「大自然との共生」、第二の「人類の平和共存」の領域にも深く関与していくのが、現代における宗教の存在意義と言えるのであります。
 仏教の、現代における存在意義も、まさに「地球文明」の持続性と発展への貢献にかかっております。
 それゆえに、仏教の原点である釈尊の悟達を源流として、鳩摩羅什による「法華経」の翻訳、天台仏教、日蓮仏法へと仏教史を辿りながら、大乗仏教に一貫して流れる「生命の尊厳性」を根本的視座として、今日における世界宗教としての仏教の使命を鮮明にしゆく当シンポジウムに、私は深い期待を寄せております。
 ロケッシュ・チャンドラ博士は、かつて、「『法華経』と現代」と題する講演の中で、次のように述べられました。
 「漆黒の闇夜にあって、人々は光を探し求めている。
 もっとも強く求められているのは、人類の意識の夜明けである。人々は、永遠という源泉の中に存在するものを、今新たに世界のキャンバスに描きだすことを熱望している。
 未来の王国は、現実と想像から生まれる。未来の人類は、文化のダイナミックな担い手となるであろう」
 「法華経」(観世音菩薩普門品)には「無垢清浄の光あって、慧日には諸の闇を破し」とあります。当シンポジウムの真摯なディスカッションの中から、人類を覆う暗闇を突き抜けて、「地球文明」の創出のための“英知の光”が放たれゆくことを念願しております。 (聖教新聞 2012-03-26)