仏とは戦い続ける人

2012年5月26日(土)更新:3
【御書とともに〈79〉名誉会長か指針を贈る】
 夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむね(胸)の間にあり、これをさと(悟)るを仏といふ・これにまよ(迷)ふを凡夫と云う、これをさと(悟)るは法華経なり、も(若)ししからば法華経をたも(持)ちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ (上野殿後家尼御返事、1504ページ)
〈通解〉 さて、浄土といっても地獄といってもほかにあるのではない。ただ我等の胸中にあるのである。これを悟るのを仏といい、これに迷うのをを凡夫という。これを悟ることができるのが法華経である。したがって、法華経を受持する者は地獄即寂光と悟ることができるのである。

《同志への指針》
 「仏」とは、自分を離れた特別な存在ではない。自他共の生命が尊極であることを信じて、この現実社会のなかで「戦い続ける人」のことである。
 「仏」と「凡夫」との違いは、自身の胸中に宇宙大の可能性があることを、確信できるかどうかである。その一点に目覚めれば、どんな厳しい環境でも屈しない。今いる場所を寂光土と輝かせていけるのだ。 (聖教新聞 2012-05-25)