牧口先生は、名門校の校長になりたいなどという願望は、全くなかった

2012年5月26日(土)更新:7
【新・人間革命 人材城 四十】
 一九二〇年(大正九年)六月、三笠尋常小学校、同夜学校の校長に就任した牧口常三郎は、同時に住居も、家族と共に学校内にある官舎に移した。
 彼には、名門校の校長になりたいなどという願望は、全くなかった。最も不幸な、大変な生活環境のなかに生きる児童に、教育の光を送ることこそ、教育者の使命であると考えていたからである。
 三笠小は、壊れた窓ガラスを厚紙で塞ぎ、風の侵入を防いでいるような、施設の補修も十分にできない恵まれぬ小学校であった。
 しかし、牧口は、満身に情熱をたぎらせ、児童のために心血を注いだ。当時の三笠小は、「十五学級約八百人の児童が三部に分かれて教授を受けている。即ち四年以下が午前と午後とに、五、六年は全部夜間にということになっていて、授業時間は二十一時乃至二十四時である」(注1=以下同じ)とある。
 授業は、なんと午前零時まで行われていたのだ。校長の牧口が、校内にある官舎で暮らしたのは、まさに二十四時間、児童のために尽くそうと覚悟していたからだ。
 また、保護者についても、次のように記述されている。
 「父兄は悉く労働者階級というのだから、教育よりも食うことという念慮が強い。したがって児童の大部分はそれ相応の労働に従事せねばならない。そして多少の賃銭を得て活計を助けているのである。こういう状態だから出席歩合なども、平均七五・三五という低率である。彼等のうち、六ケ年も学校に出すというのはいい部類だ。中には全然之を避けようとする、若しくは避けなければならぬ余儀ない事情の者もある」(注2)
 牧口は、ここでも児童の家を訪ね、子どもを学校に通わせるように、親を説得して回った。児童の将来のために、学ぶことの大切さを力説した。聞く耳をもたない親たちも、牧口の慈愛に満ちた真剣な訴えに、遂には登校させることを約束するのだ。真心を込めた情熱の対話こそ、事態を打開する直道である。
■引用文献   注1、2 佐藤柏葉著「東京市の小学校を観る(二)」(『北海道教育』大正十年七月号所収)=現代表記に改めた。
     (聖教新聞 2012-05-26)