ヒューマニズムの真髄は“人の振る舞い”に

2012年5月27日(日)更新:3
【世界の知性は語る アイダホ大学名誉教授 ニコラス・ガイヤ博士 人々を啓発する池田SGI会長の実践】
 〈ガンジーの“道義的な勇気”〉
*インドの哲人・タゴールは、ヒューマニズムの宗教の一つの機軸を“体験”に置いております。
●ガイヤ博士 ヒューマニズムの宗教の特質は、その実用主義にあります。釈尊は、自らが覚った真理を、弟子たちも自ら実践し、自らの救済に適したものであることを検証するようすすめました。真理の実験証明を促した、といってもいいでしょう。
 釈尊は、自身が宗教の神聖なる権威者であるから、我が言に従え、などとは言わなかったのです。釈尊自身、体験的に真実を覚ったのだから、弟子たちも、それを自身で体験し、真理を発見せよ、と励ました、と私は考えます。
 大切なのは、人生に生起する、一つ一つの出会いや体験の意味を深く見つめ、内省し、さらなる向上の知恵を磨いていくことです。そこにヒューマニズムの宗教の実践の真価がある、と私は考えます。
 仏を神聖なる絶対者として、あがめ従うのではなく、仏がいかに生きたかを学び、その振る舞いを、我が人生の模範として生きることが肝要なのです。

*博士は、ガンジーの“道義的な勇気”に貫かれた生き方にも、深く共感されておりますね。
●博士 ガンジーは深き宗教的精神を称えた実用主義者でした。ヒューマニズムの宗教の実践者であった、といってもいいでしょう。それは、彼が、すべての人間の完全性を深く信じていたからです。さらに、真理は、自らが体験し、検証すべきである、との立場に立っていたからです。とりわけ、ガンジーは、“道義的な勇気”の徹底した実践者でありました。それに関して、有名なエピソードがあります。
 当時、インドのパンジャブ地方にパスチューン人が住んでおりました。アフガニスタンと国境を接するこの地では、隣国のタリバン人の影響を強く受け、人々は、勇猛であることを誇りとし、常に武器を携帯していました。
 ガンジーは、周囲の強い反対にもかかわらず、パスチューンの人々に非暴力の意義を説こうと決意し、現地に赴きました。そして、その首長との対話を申し出ました。その首長は会見を了承したものの、重装備の武器をつきつけられながらの会見となりました。
 ガンジーは開口一番、首長に言いました。「あなた方は、世界で最も勇猛果敢な人々として知られています。しかし、重装備の武器に護られたあなたと、杖一本をたよりにはるばる訪ねてきた私と、どちらが勇気があるでしょう」
 首長は、しばしの沈黙のあと、おもむろに口を開きました。「ガンジー、それはあなたです」と。首長は、やがてガンジーの非暴力の実践者となり、武勇で知られたパンジャブの地に、平和をもたらしたのです。
 真の勇気とは、このようなものです。よく訓練された兵士の持つ勇気にも、一分の義はあるでしょう。しかし、そうした人々が、戦争において比類なき勇気を見せても、自らの家庭や地域における生活の中で、勇気を示せない場合もあるのです。それには、勇猛とは異なる勇気、すなわち、相手を理解し信頼を結ぶことのできる勇気が必要だからです。
 兵士が持つ勇猛な勇気は、肉体的な訓練によって養うことができます。一方、道義的な勇気は、精神の鍛練によって得られるものなのです。そして、この道義的な勇気こそが、他のすべての勇気に勝る、普遍の勇気なのです。

 〈“差異を称える勇気”に感銘〉
*私たちは師弟の実践を通して“道義的な勇気”を磨き、深めております。牧口初代会長と戸田第2代会長は、民衆を支配し、従えようとする権力との闘いの中で、その厳しき模範を示しました。池田SGI会長は、その精神を“差異を称える勇気”として普遍化し、人種や信条を超えて、人々の心を結びゆく、平和の方規を示しました。
●博士 創価学会の師弟の実践は、ヒューマニズムの宗教の重要な模範となるものです。とりわけSGI会長の“差異を称える勇気”に関して、私には、いくつかの忘れがたい体験があります。
 2002年の3月、日本の創価大学を訪問した時、私は、キャンパスにホイットマン、ダビンチ、ユゴーなど、西欧の文明を代表する人々の像が、誇らしげに立っている姿に、深い感銘を受けました。
 アジアの各国では近年、植民地時代に対する反動も手伝って、西欧的な都市の名称を、それぞれの国に固有の名称に変更する動きが、盛んとなりました。それだけに、創価大学に立つ西欧の文人たちの像は、創立者であるSGI会長の差異を称える勇気の、何よりの象徴と、私の目には映ったのです。
 さらに会長は、洋の東西を問わぬ世界の識者との開かれた対話を、幅広く行っておられます。それも、決して自らの宗教や信条を押しつけるのではなく、排他的な姿勢を持つこともなく、人間と人間の交流に根ざした、理解と共感を結ばれているのです。
 このように開かれた宗教観を持ち、異なる文化にその身を置くような姿勢で、他者を理解しようとする姿に、真の慈悲と勇気の体現者の輝く模範がある、と私は共感するのです。

 〈忘れ得ぬ創大卒業式での光景〉
*博士は、大学の卒業式でのSGI会長の振る舞いに、深く共感されておりましたね。
●博士 式典のスピーチで、参加した学生たちと、当意即妙の会話を交わす姿に感銘しました。ユーモアと謙虚さをたたえた会長の人格が発する、人間のぬくもりで、会場が一つに結ばれていく姿に、心打たれました。会長は、卒業証書を手渡す権威者としてではなく、人間教育の模範を示す、開かれた人格の体現者として、式典に臨んでいたのです。
 教育には、子どもたちが真っ白なキャンバスに絵を描くことを手助けする重要な役割があります。子どもたちが、人生の価値を創造しゆくための個性の開花を手助けする、ということです。
 しかし、それは単に、社会的なルールに従わせるための手助けであってはなりません。そうなれば教育は、子どもたちを盲目にし、服従の心を植え付けるだけに終わってしまいます。
 真の教育、すなわち子どもの個性を開発させるための教育には、よき師匠の存在が不可欠なのです。そして、その師匠は、子どもたちを従わせる存在ではなく、あるべき人間の生き方を示す存在でなければなりません。そうした師匠に学ぶことによって、子どもたちは、それぞれ特異な個性を開発していくことができるのです。

*自由と解放の意味をもつリベラルアーツ(教養系)教育が待望される由縁も、そこにあります。
●博士 リベラルアーツの教育の目的は、ものごとを正しく判断する鍛練を通して、自由と責任を兼ね備えた全人格的人間を育成することにあります。牧口初代会長の言葉を借りれば、その真髄は、職業を取得するためではなく、価値創造者の育成のための教育にあるのです。
 ある著名な教育哲学者は、リベラルな人間主義の教育こそ、人類文明における最大の発見である、とさえ言っております。その意味でも、SGI会長が創設されたアメリ創価大学が、未来の人類文明に大きく寄与してゆくことを、心から期待しております。

※ニコラス・ガイヤ  1944年生まれ。アイダホ大学名誉教授。現象学や意味論などのヨーロッパ哲学を研究した後、仏教を中心とした東洋哲学の研究に専念。アメリカ哲学学会会員、アメリカ宗教学会会員。著書に『ヴィトゲンシュタイン現象学』 『非暴力の徳――釈尊からガンジーまで』など。
      (聖教新聞 2012-05-27)