少しの勇気を出して会って話してみよう

2012年5月29日(火)更新:4
【名字の言】
 “キリスト教徒がなぜ、御書の翻訳を?”。ある壮年部の友は、怪訝な気持ちで本紙を読み進んだ。4月28日付、フランス語版御書の総合監修を務めた、パリ・カトリック大学のドゥニ・ジラ元副学長の声だ
 違和感は、すぐに感動に変わった。そこには、かなりのキリスト教徒が日蓮大聖人の著作を読みたいと思っていること、御書発刊が偏見を正し、宗教間対話を進めるためであることが綴られていた。「宗教観の狭さを反省させられました」と、壮年は座談会で話した
 キリスト教徒が多い長崎。30年前の5月、同地を訪問した池田名誉会長は同志に教えた。「法の上の厳しさと、人間的なつながりを、混同してはいけない。信仰で会うのではない。人間として会うのです」。その後、名誉会長自身が宗教間対話を世界に大きく広げていく
 友人と話すと、学会への偏見に遭遇することがある。誤解は明快に正すべきだ。ただ、対話は「論破」が目的ではない。認め合い、友情を結ぶためだ。反対に“あの人はこう”と、こちらが垣根をつくっている場合も多い
 「相変わらず」という言葉はあっても、実際に変わらない人はいない。少しの勇気を出して、会って話してみよう。「開かれた対話」は私たちにもできる。 (聖教新聞 2012-05-29)