「生命の尊厳」守る生き方が未来の礎に

2012年6月5日(火)更新:2
【牧口初代会長生誕141周年記念提言「持続可能な地球社会への大道」(上) 創価学会インタナショナル会長 池田大作

 〈ペッチェイ博士が鳴らしていた警鐘〉
●アウレリオ・ペッチェイ博士が、私との対談集で述べていた言葉です。
 「われわれは自らの力に魅惑され、“なすべきこと”ではなく“できること”をやっており、実際に“なすべきこと”や“なすべきでないこと”に対しても、あるいは人類の新しい状況に潜んでいると考えなけれはならない道徳的・倫理的規制に対してすらも、なんら配慮することなく、どんどん前進しています」 (『二十一世紀への警鐘』、『池田大作全集第4巻』所収)
●牧口初代会長は、弱肉強食の論理のままに他の犠牲を顧みず、“できること”の追求が強行されていた20世紀初頭の世界の姿を、こう描写していました。
 「各各いやしくも利益のある所、すなわち経済的侵略の余地ある所、政治的権力の乗ずべきかげき(=すきま)ある所に向かって虎視眈々たり。さればあたかも気界における現象の低気圧の部分に向かって高気圧部より、空気の流動するが如き現象を国際勢力の上に生ぜり」(以下、『牧口常三郎全集第2巻』第三文明社、現代表記に改めた)
●他国に脅威を与えることで威信を誇示し合う軍拡競争や、貧困や格差の拡大に目を背けた形でのグローバルな経済競争はやむことなく、現代文明の軸足は今なお、倫理的なブレーキが十分に働かないまま、“できること”をどこまでも追い求める思考の磁場から、容易に抜け出せない状態にあるといえましょう。
 最初は十分にコントロールできると思い込んでいた欲望が、次々と現実となる中で肥大化し、気がついたら手に負えない状態に陥ってしまう――そんな欲望のスパイラル(連鎖)がもたらしたものこそ、非人道的兵器の最たる存在である核兵器であり、経済成長を最優先させるあまりに各地で急速に広がった環境破壊であり、投機の過熱によるマネーゲームが引き起こした昨今の経済金融危機ではなかったでしょうか。

 〈自他共の幸福を目指すビジョン〉
●もちろんその一方で、“できること”の追求が、人々の健康と福祉面における向上や、衣食住に関する状況の改善をもたらしたり、交通・通信技術の発達によって人やモノの交流が飛躍的な広がりをみせるなど、さまざまな恵みを社会にもたらし、発展の大きな原動力になってきたことも事実です。
 牧口初代会長も、そうした追求自体を否定してはおらず、むしろ競争を通じて人々が切磋琢磨し、活力を引き出し合う点に着目し、「競争の強大なる所これ進歩発達のある所、いやしくも天然、人為の事情によりて自由競争の阻がいせらるる所。これ沈滞、不動、退化の生ずる所なる」との認識を示していました。
 ただしその主眼は、利己主義に基づいて他の犠牲を顧みない軍事的、政治的、経済的競争から脱却し、「自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめん」と願い、「他のためにし、他を益しつつ自己も益する」人道的競争へのシフトを促す点にありました。
 これは、欲望の源にある“自分の置かれた状況を何とかしたい”という思いが持つエネルギーを生かしつつ、それをより価値的な目的へと向け直すことで「自他共の幸福」につなげようとするビジョンであり、競争の質的転換を志向したものに他なりません。
 仏法では、その人間精神の内なる変革のダイナミズムについて、「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」(御書710ページ)と説いています。いわば、自分を取り巻く状況に対する怒りや悲しみを、他者を傷つけ、貶めるような破壊的な行動に向けるのではなく、自分を含めて多くの人々を苦しめている社会の悪弊や脅威に立ち向かう建設的な行動へと昇華させる中で、社会を「希望」と「勇気」の光明で照らしていく生き方を促しているのです。
 仏法の思想とも響き合う牧口初代会長のビジョンを現代に当てはめてみると、軍事的競争の転換については、「国家の安全保障」だけではなく「人間の安全保障」の理念に基づいて、防災や感染症対策のような分野でどう貢献していくか、切磋琢磨することが一つの例に挙げられましょう。
 “共通の脅威”の克服のために努力し合うことが、どの国にとっても望ましい“共通の利益”となっていくからです。
 政治的競争についても、これを「ハードパワーによる覇権争い」ではなく、いかに創造的な政策を打ち出し、どれだけ共感を広げるかを競っていく「ソフトパワーの発揮競争」という次元に置き換えていけば、同じような構図が浮かび上がってきます。
 有志国とNGO(非政府組織)が触発し合い、力強い連帯を形づくる中で成立した「対人地雷禁止条約」や「クラスター爆弾禁止条約」などは、その象徴的な例といえましょう。
 これは、軍事目的を理由にした“できること”の追求よりも、人道的に“なすべきこと”を優先させるよう、各国に迫った運動に他ならず、その共感が国際社会に広がったからこそ実現をみたものなのです。
●「持続可能性」の追求というと、何かを制限されたり、抑制的な姿勢が求められるといったイメージで受け止められてしまうかもしれませんが、その段階にとどまっていては変革の波動は広がりません。
 資源は有限であっても、人間の可能性は無限であり、人間が創造することのできる価値にも限りがない。その価値の発揮を良い意味で競い合い、世界へ未来へと共に還元していくダイナミックな概念として位置付けてこそ、「持続可能性」の真価は輝くのではないでしょうか。
 「他の国々(人々)のために行動する中で、自国の姿(自分の人生)をより良いものに変えていく」、また、「より良い未来を目指す中で、現在の状況をさらに良いものに変えていく」――その往還(おうかん)作業の中で、「持続可能性」の追求は、互いの“かけがえのない尊厳”を大切にしながら、皆が平和で幸福に生きられる世界の構築へと着実につながっていくと、私は確信するのです。

 〈無力感を乗り越え現実と向き合う〉
ハーバード大学文化人類学を共同研究してきたアーサー・クラインマン、ジョーン・クラインマン夫妻は、こう述べています。
 「われわれの時代に蔓延している意識――われわれは複雑な問題を理解することもできないという意識――は、苦しみの映像の大規模なグローバル化とともに、精神的疲労、共感の枯渇、政治的絶望を生み出しているのである」(坂川雅子訳『他者の苦しみへの責任』みすず書房
 現代の高度情報社会の陥穽(かんせい)ともいうべき点を突いた鋭い指摘だと思います。
 そのような無力感に自分を埋没させないためには、自らの行動の一つ一つが「確かな手応え」をもって現実変革に向けての前進として感じられる「足場」を持つ以外にありません。
 私は、その足場となるものこそ、「地域」ではないかと考えるものです。
 「同じ地球に生きる責任感」や「未来への責任感」が大切といっても、日常の生活実感を離れて一足飛びに身につけられるものではありません。顔の見える関係や身近な場所で築くことのできないものが、世界や未来といった次元で築けるはずがないのです。
 責任感を意味する英語の「レスポンシビリティ」は、字義的な成り立ちを踏まえると「応答する力」という意味になります。
 今、自分が人生の錨(いかり)を下ろしている地域での出来事に対し、「応答する力」を粘り強く鍛え上げていく先に、「同じ地球に生きる責任感」や「未来への責任感」を培う道も開けてくるのではないでしょうか。

 〈マータイ博士とイチジクの木〉
●(※マータイ)博士は運動を進めるにあたって行ったセミナーで、直面している問題を皆に次々と挙げてもらい、「こういった問題の原因はどこにあると思いますか?」と聞くと、ほとんどの人が「政府の責任」と答えたといいます(以下、小池百合子訳『UNBOWED へこたれない』小学館)。
 それは正しいとしても、政府だけが悪いと考えているうちは、いつまでも状況は改善しない。ゆえに博士は呼びかけました。
 「これはあなたがたの土地なんですよ」
 「あなたがたのものなのに、あなたがたは大事にしていません。土壌の侵食が起こるままにしていますが、あなたがたにも何かできるはずです。木を植えられるじゃないですか」
●「ですから私たちは、みんなで三0000万本以上の木を植えることで、燃料、食糧、集会所、そして子どもの教育費や家計を補う収入を提供してきました。同時にこの活動は、雇用を生み出し、土壌と河川流域を改善してきました」(以下、アンゲリーカ・U・ロイッター/アンネ・リュッファー『ピース・ウーマン』松野泰子・上浦倫人訳、英治出版

 〈救われる側から救う側への転換〉
●運動に参加するたびに行われてきた意識啓発の機会を通じて、植樹への取り組みや、森を伐採から守るために行動することが、「『民主主義や社会的良識を尊重し、法律と人権、女性の権利を遵守する社会を作る』という、もっと大きな使命の一部だということを自覚していった」というのです。
●苦しみを根本的に解決する力は、自分の外にあるのではない。内なる無限の可能性に目覚め、それを開花させる中で自身が変わり、周囲の人々をも「幸福」と「安心」の方向へ導いていく――その一人の偉大な蘇生のドラマの中に、自己の苦しみさえも“社会をより良くするための糧”にする道が開けてくると仏法では説くのです。
 仏典には、そうした誓いを固めた一人の女性の言葉が、こう記されています。 「今後わたくしは、身よりのない者、牢につながれた者、捕縛された者、病気で苦しむ者、思い悩む者、貧しき者、困窮者、大厄にあった人々を見たならば、かれらを球恤(=救援)せずには一歩たりとも退きません」
 そして、彼女は自ら立てた誓願のままに、生涯、苦悩に沈む人々のための行動を貫き通したのです。
 マータイ博士も、この誓願的生き方と響き合う信念を語っていました。「私たちは、傷ついた地球が回復するのを助けるためにこの世に生を受けたのです」(以下、前掲『ピース・ウーマン』)と。
 つまり、法律のような形で外在的に決められているから行動するのでも、何かの便宜や報酬だけを求めて行動するのでもない。
 また、何かが起これば吹き飛んでしまうような決意でも、誰かの力を頼んで状況の変化を期待して待つような願望でもない。
 誓願的生き方とは、博士が「今後やらなければいけない仕事の膨大さを認識することで、力というより、エネルギーが湧いてくる」と述べているように、どんなに困難な課題でも、それが自分の使命である限り、勇んで前に進もうとする生き方に他なりません。
 地球を舞台にしたエンパワーメントで人々の勇気と智慧を湧現させていく中で、状況の改善のために自ら立ち上がること(リーダーシップの発揮)を促す。そして、皆で力を合わせて“小さな前進”を一つ一つ積み重ねながら、その生き方を自分たちの「誓い」や「使命」として踏み固めていくことが、持続可能性を追求する裾野を地球大きく広げていく基盤になると、私は考えるのです。
      (聖教新聞 2012-06-05)