“ありのままの自分”で祈る

2012年7月2日(月)更新:1
【新会員のために Q&A〈7〉御本尊に向かう姿勢】
《質問 唱題中に、雑念など、いろいろな考えが頭に浮かび、祈りが定まらないのですが。》

 入会して間もないあなたが、“仏法を正しく実践したい”との思いで質問されていること自体、本当に尊いことです。
 唱題中に雑念など、いろいろな考えが頭に浮かぶのは、ある意味で自然なことといえます。それについて悩んだり、無理に取り払おうとする必要は全くありません。長い間、信心していても祈りが定まらない時はあるものです。御本尊に向かい、祈ろうとする、その決意と行動が大切です。
 戸田第2代会長は語られました。「唱題の折、いろいろな雑念が浮かぶのは人間としてあたりまえです。だが、真剣に唱えていけば、しだいに御本尊のことだけを考えるようになれます。真剣に念ずる力があれば、種々の生活の悩みが解決される」と。
 また、池田名誉会長も「信心が強くなってくれば、自然のうちに一念が定まっていきます」と述べられています。
 私もかつて、“信心はこうあらねばならない”と、窮屈にとらえがちでした。そんな時、「のどが渇いて水をほしがるように、恋をしてその相手に会いたいと思うように、病気になって薬を頼りとするように、きれいな人が紅や白粉(おしろい)をつけるように、法華経には信心をいたしなさい」(御書1558ページ、通解)との御金言に出あい、目の前がぱっと開けました。
 またある時に、名誉会長が「雷が鳴ったら、子どもは『お母さん!』と飛びついて離れないでしょう。そのように祈っていけばいいんです」と、語ってくださり、ありのまま、真剣に祈っていく姿勢を教えてくださいました。その上で、「大事なポイントは『具体的に祈る』ということ」とも指導してくださっています。
 “祈り”は、人間にしかできない、最高に尊い行為です。祈れること自体が幸せといえます。
 ましてや御本尊は、良き人生を築いていくための最高のよりどころです。あいがたき御本尊に巡り合えたことへの感謝を忘れず、日々、心ゆくまで祈っていきたいものです。
 “自身の幸福”を願って始めた信心ですが、祈りを根本に体験を積み、確信を深める中で、いつしか自他共の幸福を祈る境涯になっていきます。
 創価学会の一員としての誇りを胸に、信心に励んでいきましょう。 (聖教新聞 2012-07-02)