だからこそ生き方の羅針盤となり信念のバックボーンとなる宗教が必要

2012年8月9日(木)更新:4
・『どの師匠に続くかで人生は決まってしまう。私たちの絆は三世永遠です』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20140426/


【新・人間革命 厚田 四十七】
 漆原芳子は、北海道の函館生まれで、子どものころから画家を志し、東京の美術大学への進学を希望していた。しかし、父親が定年を迎え、家には経済的な余裕がなかった。彼女は、奨学金を受け、地元の北海道学芸大学函館分校(当時)の二年課程に進んだ。美術を専攻し、教員をめざした。
 一九五三年(昭和二十八年)三月、大学を卒業し、小学校の教師になった。年末、体調が優れず、エックス線検査を受けた。すると、結核と判明したのだ。やむなく休職することになった。
 仕事にも慣れ、“いよいよ、これから”という時である。悔しくて仕方なかった。
 これが、彼女の不幸の始まりであった。
 「一寸先は闇」との言葉がある。順風満帆に見えても、何が待ち受けているのか、わからないのが人生という航路である。だからこそ、生き方の羅針盤となり、信念のバックボーンとなる宗教が必要になるのだ。
 芳子は、自宅療養をするうちに、幾分、健康を回復していった。
 療養中の五四年(同二十九年)の秋、絵の好きな大学時代の友人たちから、東京の美術館巡りに誘われた。当初、体を慣らす意味から、一緒に行く約束をしていた。しかし、母親から、「無理をしてはいけない」と諭され、直前になって断ることになった。
 皆が出発した九月二十六日は、台風十五号が北上したことで、天気は昼前から大荒れであった。しかも、夜になると、予報に反して台風は勢力を強め、風は、ますます激しくなっていった。函館の街は停電となった。漆原の家は、強風でみしみしときしんだ。
 ガッチャン!――二階から大きな音が響いた。強風のために窓ガラスが割れたのだ。芳子は、暗闇のなか、懐中電灯を手に二階へ駆け上がった。
 “痛い!”
 割れたガラスを踏んでしまった。懐中電灯で照らした。足は見る見る血に染まっていった。不吉な予感を覚えた。  (聖教新聞 2012-08-09)