相手に寄り添うケア・思いやり教育

2012年9月3日(月)更新:3
 豊かな人間関係の形成、健全な社会の構築のために、不可欠なのは“思いやりの心”です。同時に、相手への思いやりが正しく伝わらず、予期せぬ結果を招いてしまうことも、しばしばです。では、自他共の喜び、感謝を育む真の思いやりとは――ケア(思いやり)教育、平和教育の第一人者であるネル・ノディングス博士に聞きました。


【世界の知性は語る スタンフォード大学名誉教授 ネル・ノディングス博士 忘れえぬ創価学園での生徒たちとの交流】
〈最も適切な他人への関わり方を問う〉
 ――博士はケア(思いやり)について、「ケア・アバウト」と「ケア・フォー」という、二つの側面から研究を進めておられますね。
 ノディングス博士 「ケア・アバウト」とは、他人に何かをしてあげたい、と考えることです。「ケア・フォー」とは、困っている他人のために、何をしてあげることが最も適切かを深く考え、具体的な行動を起こすことを意味します。
 もちろん、前者は、後者へとケアの質を高めていくためのステップとなります。しかし、ケアといっても、それを求める人たちの現場に飛び込み、苦労を分かち合い、その人たちのために、今、何が必要かが理解できなければ、真に効果的な援助、すなわち、「ケア・フォー」に根ざした援助を行うことはできません。それどころか、良かれと思って行ったことが、逆効果を生むことさえあるのです。そこに、「ケア・アバウト」的な支援の限界の一つがあるのです。

 ――具体的な例を挙げていただけますか。
 博士 以前、ある国で大地震があり、アメリカから大量の衣類や食糧が送られました。しかし、その時、被災地が一番、欲していたのは、建物や道路の整備に要する資材だったことが、後で判明したのです。こうした形だけの思いやりを投げ与えるようなケアを得ても、それを受け取る側に、心からの感謝はわかないものです。
 また、私がスタンフォード大学の大学院生のころ、ある国のコーヒー農園の労働者が、搾取に苦しんでいることを、学生たちが問題視したことがありました。彼らは、不平等への抗議として、その国から輸入されるコーヒーの不売運動を起こし、全米規模に広がりました。
 当然、その国からのコーヒーの輸出量は激減し、多くの農園が苦境に陥り、その結果、搾取に苦しむ労働者たちが、仕事そのものを奪われる羽目になったのです。良かれと思って起こした行動が、予期せぬ逆効果をもたらしてしまったのです。
 ゆえに、真のケアのためには、相手の実情をじっくりと聞き、その時点で、最も適切な支援を心掛けることが大切です。さらに、その支援が、特定の環境や社会状況のなかで、実際にどのような結果をもたらすか、熟慮し、行動することが不可欠なのです。
 教育についても、全く同じ事が言えるのです。私が「ケア・フォー」の心根に立った“思いやりの教育”を重視するゆえんも、そこにあるのです。

〈世界の教育の主流は競争から協調へ〉
 ――人間は、孤立した存在ではなく、関係性に生きる存在である、と深く知ることも大切ではないでしょうか。そうした視点に立てば、他者への思いやりの心も責任の意識も、いっそう深まると考えますが。
 博士 私は、マルティン・ブーバーユダヤ系の哲学者で『我と汝・対話』の著者)の“思いやりの倫理”に、深い啓発を受けております。その思想の基盤は、人間は、宇宙、そして世界の一部として存在している、との理解にあります。他に超越したり、孤立したりする存在ではない、ということです。それは、仏教の思想とも、深く共通するものといえます。
 私は、この相互関係性の思想を、現代の教育に深く反映させねばならない、と考えております。興味深いことに、世界の教育の主流は今、競争から協調を指向したものへと、意識変革を遂げようとしております。その新たな理解と挑戦は、環境問題の分野にも及んでおります。生態系の問題を、孤立した、局所的な視点から捉えるのではなく、共同体の全体を視野に収めながら、解決の方途を探る試みが、それです。ともあれ、21世紀の挑戦は、相互関係性の視点に立ちながら、全ての問題に光を当てていくことにある、と思います。
 ――池田SGI創価学会インタナショナル)会長は、21世紀は「女性の世紀」であると提唱しております。関係性に基づく女性の知恵、共生の豊かな心こそ、時代の変革の力、と期待したものです。
 博士 男性には、“自分が正しく処遇されるためには相手をどう遇すればいいか”との視点から、人間関係を考える傾向があるといえます。自己中心的な思考が強いということです。一方、女性には“自分が何かをした時、相手はそれをどう感ずるだろうか”と考える傾向があります。それを、他者に寄り添った思考、と考えてもよいでしょう。こうした女性的な視点や知恵は、共生の時代を開いていくうえで、重要な役割を果たすものといえるでしょう。

〈平和に貢献する池田SGI会長に共感〉
 ――共生の時代を開くためには、自らと異なる思想や文化に生きる人々と、どう向き合い、健全な関係性を築いていくかも、重要な挑戦となりますね。
 博士 それこそが、平和の構築のための基本となるものです。そのために大切なのは、お互いを正しく知り合うための対話です。それについてデューイは、大変に興味深い見解を示しております。人間関係において、大きな障害や不一致が生じたら、まず、対話を始めなければならない。しかし、いきなり、当面する課題について話し合いを始めるのは、得策ではない。対立点が比較的弱く、共通の理解を持ちやすいテーマを選んで、対話の席に着くのが賢明である、というものです。
 他のテーマについて、じっくりと話し合い、もう、お互いが啀(いが)み合い、傷つけ合うのは愚かだ、と思えるまでに、信頼と理解を深めることが第一歩である。そのうえで、解決すべき、具体的な問題について話し合えば、解決の糸口が、より見つけやすくなる、ということです。
 ――開かれた対話を通して、お互いが深い人間理解を結べば、差異は、障害となるどころか、人間の多様性の証しとして輝く――そこに池田SGI会長の思想と行動の規範があります。会長が創設した創価教育の学舎にも、その精神が美しく反映されております。博士ご自身、創価学園を訪問された折、生徒たちとの、忘れえぬ交流を結んだ、と語っておられましたね。
 博士 生徒たちが「アメリカ・ザ・ビューティフル(美しきアメリカ)」の歌を、英語で、美しいハーモニーに乗せて披露してくれたことが、今なお、胸に響いています。忘れえぬ感動でした。私は、常に自らを律して生きてきた、気丈な人間と自負しています。感傷や感動を、涙で表現する、というタイプではないのです。それなのに、生徒たちの歌声を聞きながら、涙があふれて止まらなかったのです。その時、私は、子どもだった頃の出来事を思い起こしていました。当時、日本と交戦していたアメリカでは、日本をあざける、激越(げきえつ)で野卑(やひ)な歌が、はやっていました。敵国人を非人間化して、敵愾心をあおるのは、どこの国でも見られる常套手段なのです。
 しかし今、私の前で、日本の生徒たちが、歴史と文化を異にするアメリカの美しさを、心から称え、歌い上げている。かつて敵愾心を燃やしたアメリカ人の姿とはなんと対照的だろう。平和の種子は、このようにして育まれるべきなのだ――。こうして相次いで打ち寄せる感動が、私を、熱い涙へとさそっていったのです。
 このように、教育をはじめ、さまざまな分野で平和に貢献されている池田SGI会長の業績に、私は深い共感を覚えております。
   (聖教新聞 2012-08-19)