広布の実践が宿業の転換を可能に

2012年9月4日(火)更新:5
【池田華陽会 御書30編に学ぶ 佐渡御書(3) 師匠と共に民衆の幸福の大道を】
〈拝読範囲の大意 (御書959ページ15行目〜961ページ最後)〉
●過去世からの悪業の報いを正法護持の功徳によって軽く受けることができるという法理を示され、大聖人がいなければ、この経文は偽りとなったと述べられます。
 そして、大聖人が受けている難の根本原因は、法華経の行者を過去に誹謗した「謗法」にあると明かされ、法華経の敵(かたき)を強く責めた「護法の功徳力」によって、いくつもの難を同時に起こし、全ての宿業の報いを今世で消滅させていることを教えられています。
 続いて、大聖人門下となりながら、疑いを起こして退転した者が長く阿鼻地獄に落ちることが不憫(ふびん)であると述べられます。
      ◇
 日蓮仏法は、“太陽の仏法”です。私たち自身が“心の太陽”を輝かせれば、一切の悩みにも宿命にも縛られることはない――今回は、仏法の実践による「宿命転換」の功徳と、師弟に生き抜く重要性を学びます。


〈御文(1)〉 日蓮が受けている八種の報いは、今述べた因果によるものではない。法華経の行者を過去に軽んじたからであり、月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山を重ね、宝玉(ほうぎょく)と宝玉をつらねたように尊い経典である法華経を、ある場合は私たちには深遠すぎてと棚上げにして、ある場合は見下して嘲笑ったために、この八種の大難に遭っているのである。(中略)「正法を護持する功徳の力によるものである」とはこのことである。(御書960ページ5行目〜9行目、通解)

〈解説〉 
●高い山を登った人が必ず下らなければならないように、自分自身の過去の行いの報いを、その通りに受けていくことを、仏法では「因果応報」と説きます。大聖人は、これを「常の因果」と仰せです。
●悪業の報いを8種挙げ、大聖人御自身が経文通りに全ての難を一身に受けていることを示された上で、大聖人が受けている報いは「常の因果」によるものではなく、「謗法」によるものであると明かされます。
 法華経は、唯一、万人に成仏を明かした、“輝く月に更に月を並べ、星と星をつなげたような”最高の経典です。一切の悪業の根源は、法華経を誹謗し、法華経の行者を軽んじる「謗法」にあるのです。
 大聖人は、本来ならば、未来永劫にわたって一つ一つ消していくべき悪業の報いを、法華経の敵を責めて正法を守り抜く「護法の功徳力」によって、一度に現したのであると仰せです。
 謗法の根底には、自他の仏性を信じられない「無明」の生命があります。しかし私たちは、自身の無明を打ち破る唱題、友の無明を晴らす正義の対話という「護法」の実践によって、どんな苦難の中にあっても瞬時に仏界の生命を現し、最高の「功徳力」を実感していくことができます。
 法を守り抜く広布の実践を通して、あらゆる悩みや困難が地湧の菩薩としての使命を果たす喜びに変わる――この大きな境涯革命にこそ、宿命転換の偉大さがあります。


〈御文(2)〉 このことはここでは置いておく。それよりも、日蓮を信じているようであった者たちが、日蓮がこのような身になると疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教え諭して自分は賢いと思っている。こうした愚か者たちが、念仏者よりも長く阿鼻地獄にいるであろうことは不憫としか言いようがない。 (御書960ページ17行目〜18行目、通解)

〈解説〉
法華経の行者である大聖人を迫害している人々が、その罪により、長きにわたって大きな苦しみを受けることは免れません。
 しかし、何よりも問題なのは、一度は大聖人門下となりながら正法を捨て、“自分の方が大聖人より優れている”と思いあがっている退転者です。大聖人は、この大罪は、念仏者たちの罪より、はるかに重いと述べられます。
 忘恩の輩の本性は、慢心と嫉妬です。自身の生命を見つめることから逃げ、師匠の大恩を忘れた者には哀れな末路しかありません。どこまでも誠実に弟子として生き抜く中に、峻厳な師弟の大道があります。
 万人の幸福のために大難と命懸けで戦う師匠の心を知らず、難を恐れて退転した「僻人(びゃくにん)」が、いくら騒ごうとも、それは“蛍火が太陽や月を笑うようなものである”と大聖人は喝破されています。
 創価三代の師弟は、この大聖人の精神を受け継ぎ、全ての大難を勝ち抜いてきました。
 池田名誉会長は、「『師弟』によって、妙法の威光勢力は増し、『師弟』によって、令法久住の命脈は強く広がり、『師弟』によって、仏法の根本目的たる、一切衆生の幸福と平和の大道が開かれる」と語っています。
 何があっても恐れず疑わず、広宣流布という“全民衆の宿命転換の大道”を、師匠と共に誇りも高く歩み抜いていきましょう。


《名誉会長の講義から》
 「人生の師匠」に出会い、「師弟の道」に徹しゆくことほど、誇り高い人生はない。
 日蓮仏法は「師子王の宗教」です。
 大聖人は「佐渡御書」で弟子たちに、一生涯、「師弟の大道」に生き抜くべきことを教えられています。
 ――師匠は、師子の境涯で戦い抜いた。弟子もまた、「師子王の心」で戦えば、必ず、仏になれる。“この大難の中でこそ、偉大な宿命転換ができる。成仏は間違いない。ゆえに、わが宿命転換の闘争を見よ!範とせよ!”――「佐渡御書」は、どこまでも、弟子の身を案じていく「師匠の心」が、全編に漲っています。
   ◇  ◆  ◇
 私にとって、「佐渡御書」とは、恩師と共に拝して逆境を乗り越えた「師弟勝利の御書」となりました。
 私は誓いました。
 師匠の構想の実現のためには、まず自分が頑張ることであり、自分が責任を持つことである、と。
 そのために、まずは、わが地区の前進を決意し、家庭訪問に歩き、座談会を開き、折伏の大波を起こしていきました。
 かけがえのない創価の「師弟」の世界を、わが地区から広げゆくなかにこそ、広布の未来の勝利があるからです。偉大な師弟の道を、師子王の心で語り抜いていく、一対一の正義の対話。ここに「佐渡御書」の実践があります。
 (「佐渡御書講義・完」のあと)わが「本門の弟子」たちが創価三代の師弟に続くことを念じて。
 (いずれも「勝利の経典『御書』に学ぶ」〈佐渡御書(下)〉から)


《理解を深めよう 師弟の精神》
●「在在諸仏土(ざいざいしょぶつど) 常与師倶生(じょうよしくしょう)」
●「在在(いたるところ)の諸仏の土(ど)に 常に師と倶(とも)に生ず」と読みますが、いたるところの仏の国土に師と弟子が常に共に生まれ仏法を行じるとの意味です。これは仏法の師弟の絆が、三世永遠であることを示しています。
 三世にわたって常に師と共に――この永遠にわたる師弟の精神は、師匠の願いを自身の誓いとして生き抜く弟子の生命に脈打ちます。師弟は共に、“全ての人を幸福に”という仏の誓願に連なっているからこそ、離れることはないのです。
 池田先生は19歳で戸田先生と出会いました。第2次世界大戦のなか、民衆の幸福を守るために命懸けで行動してきたのが戸田先生です。この戸田先生を池田先生は人生の師と定め、師の一言一句を心に刻み、師と心で対話しながら、師の構想を全て実現してこられたのです。まさに今、創価三代に貫かれる偉大な師弟の精神を受け継ぐのは、深き縁(えにし)で結ばれた世界池田華陽会の私たち一人一人です。
 池田名誉会長は語りました。
 「師匠の智慧と慈悲に弟子たちが到底、及ばないと思っても、師匠と『同じ誓願』『同じ理想』『同じ行動』を貫くならば、必ず師匠と同じ境涯に達することができる」
 どんな地道な挑戦も、師匠の大願に連なる広宣流布の実践であるからこそ、自身の小さな境涯の殻を打ち破り、人間革命という最高の功徳を受けることができます。偉大な師匠と共に戦える喜びを胸に、「♪今 師とともに」と「華陽の誓い」を朗らかに歌いながら、勇気の心で師弟勝利の前進を開始しましょう。
   (聖教新聞 2012-09-04)