「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」。

2012年9月8日(土)更新:4
【名字の言】
 「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」。1954年(昭和29年)9月、アメリカの水爆実験による“死の灰”を浴びて亡くなった、久保山愛吉さんの悲痛な叫びである
 東京・江東区第五福竜丸展示館の記念碑に刻まれている。亡くなる半年前の3月、マーシャル諸島ビキニ環礁で被ばくした漁船「第五福竜丸」の名は、歴史に残った。久保山さんは無線長だった
 だが当時、同じ海で漁などをしていた船は多数あった。第五住吉丸、第二幸成丸、新生丸、弥彦丸……高知船籍が多かった。そのほとんどは歴史の闇の中に。そんな時、若い力が立ち上がった。高知県の高校生たちが教師と共に、聞き取り調査を重ねたのだ。その足跡を描いた映画「〜放射線を浴びた〜X年後」が、今月15日から東京、愛媛で公開される
 ビキニ事件から3年後の57年(同32年)9月8日、戸田第2代会長は「原水爆禁止宣言」を発表。「遺訓の第一」として青年に託した。青年が行動を通して次の世代に語り伝え、学会は永遠に平和の使命を果たし抜くのだ
 この55年間、青年の大情熱の心で、平和の大闘争を貫いてきた池田名誉会長の姿を胸に、私たちも“共戦”の思い新たに、瑞々しい生命力で、対話の道を広げ続けたい。
   (聖教新聞 2012-09-08)