“水の流れるがごとき”前進で揺るがぬ幸福を築こう

2012年10月2日(火)更新:1
【教学論宛 たゆまぬ信心】
〈「土佐のいごっそう」を激励〉
●1955年(昭和30年)の初訪問以来、池田先生は、高知を幾度も訪問され、広布に邁進するメンバーに渾身の励ましを送られている。
 72年6月20日高知市の県民ホール(当時)で、約6000人の同志と共に記念撮影をしてくださった際には、「豊かな常識をたたえて伸び伸びと楽しく信心に励み、信心即生活の実証を、自身、家庭、社会の上に示していってほしい。これが“水の信心”である」と「水の信心」の大切さについて教えてくださった。
 78年12月、7泊8日にわたった高知指導でも、「高知はこれからも、大聖人が仰せになっておられる“水の流れるがごとき信心”を、一人一人が信念強く貫き、楽しい人生を讚嘆しながら、生き生きとしたご長寿の生涯を送っていただきたい」と「水の信心」を貫くことを強調された。
 90年11月、高知で開催された「第1回四国総会」では、“ハマグリの貝殻を手に、大海の水をくみ出そうと日夜励む姿が、諸天をも動かし、やがては大願の成就にもつながった”という大施(だいせ)太子の説話を引用。「信心の大道も、広布の正道も長い。その途上には、さまざまな苦難があることも必定である。しかし、苦難や障害に、決して屈することなく、信心を持続しぬいていただきたい」と語られている。
 この四国総会の時は、私自身も参加しており、先生の確信に満ちた励ましの声の響きに、「一人立つ信心」の大切さを心に刻んだ。
 なぜ池田先生が、高知の友に何度も「たゆまぬ信心」について訴えられるのか。その答えの一つとして、高知県民の気質が挙げられよう。
 坂本龍馬をはじめ、歴史回天の革命児を輩出してきた高知。「土佐のいごっそう(頑固者)」という言葉に象徴されるように、高知の人は気骨があり、一度こうだと決めたら名利にとらわれず信念を貫く強情さをもっている。
 こうした「いごっそう」にとって、「水の信心」によって、どこまでも信念を貫き通すことこそ幸福の人生を勝ち飾るための肝要であるーー。先生の度重なる指導に、高知の全同志の幸せを心から願う慈愛を感じてならない。


〈どんな時も求道心を燃やす〉
●「抑(そもそも)今の時・法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり、此れはいかなる時も・つねは・たいせずとわせ給えば水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし」(上野殿御返事1544ページ)
●常に停滞の心なく実践し続けるのが「水のごとく信ずる人」であると教えられている。
●ここで「いつも・たいせず」「いかなる時も・つねは・たいせず」との仰せに着目したい。
 「水のごとき信心」とは、単なる「信仰の継続」という次元だけを指したものではなく、いかなる時、いかなる環境下にあろうとも前に進み続ける、力強い不退の信心を意味していると拝される。
 なぜたゆまずに信心に励んでいくことが大切なのか。仏法は常に、仏と魔との戦いであり、胸中の精神闘争であることを振り返れば、その答えの輪郭がおのずと見えてくる。


〈挑戦する中で「仏の境涯に」〉
●仏法は、私たちの生命に、「無明」(迷いの生命)と「仏性」(悟りの生命)があることを説く。
 この「無明」と「仏性」とは、決して別々のものではなく、同じ衆生の一念にほかならない。
 「悪縁に遭えば迷(まよい)と成り善縁に遭えば悟(さとり)と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり」(御書510ページ)と仰せのように、善に縁すれば「法性」と顕れ、悪に縁すれば「無明」と顕れるのである。
 この「法性」を顕現させ、「無明」を冥伏させていく実践こそ、私たちの仏道修行にほかならない。
 ここで、善に縁し続ける不断の実践によってのみ無明を冥伏させることができるという点に着目したい。
 戸田先生はかつてこう指導された。
 「たゆまず流れ出ずる水の信心であれ! 溜まり水は動かないから腐ってしまう。人間も同じだ。進まざるは退転である」
 成仏とは、絶え間なき生命練磨の異名にほかならないのだ。そしてそれは常に法性を顕し、無明を冥伏させゆく不断の実践が肝要となることを教えられている。
 「雪至(いた)って白ければそむるにそめられず・漆至ってくろければしろくなる事なし、此れよりうつりやすきは人の心なり、善悪にそめられ候」(御書1474ページ)と仰せの通り、移ろいやすいのが“人の心”である
 古今東西、人間は、流転する自身の生命に振り回されて生きてきた。人間社会もまたしかりである。
 そうした人間の持つ避けがたき傾向を力強く打ち破る方途こそ、何ものにもゆるがぬ、たゆみなき「水の信心」なのである。


〈心の師を求め続ける人生を〉
仏道修行に励めば、それを妨げようとする働きが、さまざまな形で顕れてくる。
 そうした「三障四魔」の正体を見抜き、障魔が競い起こった時こそいよいよの信心で乗り越える中に、真の幸福境涯の確立がある。
 日蓮大聖人は、親からの勘当という難の渦中にあった池上兄弟に対して「心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅密経の文なり。設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし」(御書1088ページ)と指導されている。
 揺れ動く自分の心を基準とするのではなく、「心の師」を求めていかなければならないのである。
 池田先生は、「勝利の経典『御書』に学ぶ」の中で、「心の師」を求めるとは、「御本尊根本」「御書根本」の姿勢であると述べた上で、「『法』と私たちを結びつけるのが、仏法実践の『師匠』の存在です」と教えてくださっている。
 思えば、第1次宗門事件も、第2次宗門事件も、悪侶が画策したのは、“師弟の分断”であった。麗しき師弟の絆を、衣の権威を振りかざして断ち切ろうとしたのだ。
 そうした坊主の醜い謀略がうごめいていた最中に、池田先生が高知を訪れ、一人一人に「たゆまぬ信心」の大切さを教えてくださったことに感動を禁じ得ない。
 「水の信心とは、いつも池田先生と共に歩み続ける信心のことだ」ーー高知での先生の全魂の指導を励みに、師匠の心をわが心として、歯を食いしばって戦い、境涯を大きく開いた体験を、私は多くの先輩から伺ってきた。
 池田先生こそ、「たゆまぬ信心」の模範であり、「水の信心」の源流なのである。
 高知、そして四国は明年、広布60周年の佳節を迎える。
 広宣流布を実践している唯一の団体に巡り合い、御本尊を受持し、希有の師匠・池田先生に出会うことができた創価の友。皆が「水の信心」に励み、幸福の連帯が地域に一段と広がるよう、私自身が先頭に立って励ましの対話、勇気の対話に取り組んでいく決意である。
   (聖教新聞 2012-10-02)