「師子王の心」で弟子よ勝て 「佐渡御書」に学ぶ(1)

2012年10月9日(火)更新:4
【10月度座談会拝読御書 師弟不二の信心が仏法の根幹】
〈本抄について〉
●前年の竜の口の法難以降、迫害は大聖人だけでなく門下にも及び、弟子たちは投獄・所領没収などに処されました。こうした難が起こり退転者が相次ぐ中、大聖人は本抄で、難こそが仏の境涯を開く好機であることを強調されています。
●本抄御執筆の前月、2月には、立正安国論で予言された自界叛逆難にあたる「2月騒動(北条一族の内乱)」が起こり、その知らせを受けて本抄は認められました。本抄には“師である大聖人に続いて、弟子も敢然と難を乗り越えよ”との厳しくも温かな慈愛が脈打っています。


〈拝読御文〉 悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべし (佐渡御書957ページ)


 たとえ、どんな試練があろうとも、「師子王の心」で戦えるかどうか。この一点で「成仏が決まる」と教えられています。
 当時の諸宗の僧は、智者(=日蓮大聖人)の立場が弱いことを侮り、反対に絶対的な力を持つ権力者には媚びる畜生の生命そのものでした。
 「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時」とは、宗教的権威を振りかざす卑劣な「邪法の僧等」が、正法破壊の政治的権力である「悪王」と結託して、正義の「智者」をなきものにしようとする時のことです。この最強・最大の「強敵」からの迫害によって、大聖人は竜の口の法難や、その直後の佐渡流罪に遭われたのです。
 しかし、大聖人は、こうした命にも及ぶ大難に微動だにせず、“胸中の「師子王の心」を取り出せば「必ず仏になる」”と厳然と叫ばれました。事実、大聖人御自身が、この“迫害の構図”を見抜き、襲いかかる魔の軍勢に勇敢に立ち向かい、御本仏の境涯を顕されたのです。
 拝読御文の力強い言葉に触れた弟子・門下は、どれほどの励ましと勇気を受け取ったことでしょう。
 最大の苦境に立たされた“ここぞ”という時にこそ、師匠に続き、師匠のごとく「師子王の心」で戦う――。この「師弟不二」の勇気ある信心こそが一切の障魔を打ち破り、自身の一生成仏と宿命転換の直道となることを確信していきたいと思います。
 “師子王の心を持つ者が必ず仏になる。例を挙げれば日蓮である”と仰せになった御文について、これはおごって言うのではなく、正法を惜しむ心が強盛だからであると述べられています。
 なぜ正法を惜しまれたのか。それは、正法が失われてしまえば、人々の救済の道が閉ざされてしまうからです。ゆえに大聖人は、正法を守り抜くために、命を懸けて正法破壊の“悪”と戦われました。わが身命を惜しまぬ「不惜身命」の精神こそ日蓮仏法の魂であり、何があろうと断じて勝ち抜く力の源泉です。
 池田先生は「最極にして無敵の勇気が、『師子王の心』」であり、「いざという苦難の時に、この勇気を奮い起こし、師匠と共に、思い切って戦い抜いた人が、仏になれる。勇気こそが、己心の無明を打ち破り、自他共に仏界の生命を開く」と教えてくださっています。
 今、社会は大きく揺れ動いています。しかし、変化の時こそ、確信ある声が友の心に響いていく拡大のチャンスです。何があっても師と共に「師子王の心」で勝ち越え、学会創立記念日の「11・18」を晴れやかに迎えていこうではありませんか。


〈拝読の参考 「正法を惜む心」〉
●何のために命を使うのか
●雪山童子などが例に挙げられ、「法」のために命を捨てた実践について述べられています。
●大聖人は、生命以上に惜しいものはないのだから、その身命を布施として仏法を修行すれば必ず仏となると教えられています。
●あくまでも時に適った仏法の実践を貫くことが肝要になる
●仏法のために身命を捧げた雪山童子の例は、法を教わるために身を布施することが必要だったからです。
●不惜身命といっても、決して生命を軽んじ粗末にすることではありません。わが身命を惜しまぬ“精神”こそ大切になるのです。
●大聖人御在世の時は、仏法がまさに滅しようとする末法の初めでした。この時に最優先されるべきは、命を懸けて正法を守り抜くことです。正法が埋没し失われてしまえば、仏法の目指す万人成仏の道が閉ざされてしまうからです。
 “師子王の心を持つ者が必ず仏になる。例を挙げれば日蓮である。こう言うのは正法を惜しむ心が強盛だからである”との仰せには、こうした背景があります。どこまでも法を根本として自他共の幸福を開きゆく実践に、仏法の真髄はあるのです。
   (聖教新聞 2012-10-09)