教学 自身に勝て!仏法は勝負

2012年11月2日(金)更新:3
【11時度男子部「御書活動者会」研鑽のために 辧殿尼御前御書】
《御文》 
 第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし、しかりと・いえども弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり (御書1224ページ)

《通解》 
 第六天の魔王は、十種の魔の軍勢を用いて戦を起こし、法華経の行者を相手に、生死の苦しみの海の中で、凡夫と聖人が共に住んでいるこの裟婆世界を「とられまい」「奪おう」と争っている。日蓮は、その第六天の魔王と戦う身に当たって大きな戦を起こして、二十数年になる。その間、日蓮は一度も退く心はない。しかし弟子等・檀那等の中で臆病の者は大体、退転し、あるいは退転の心がある。


●「戦う」「勝負」「勝つ」――学会員はこうした言葉をよく口にする。
 「平和を目指す仏教団体なのに、“戦う”ってどういうこと?」と友人から質問を受けることも少なくない。
 平和といっても、一人の人間が変わることから始まる。幸福になることから始まる。
 広宣流布とは、人間の幸福を“妨げようとするもの”との戦いである。その相手は決して遠くにいるのではない。自身の生命に内在すると、仏法は洞察する。
 一人一人の生命の奥底には、尊極の仏性が具わっているが、同時に「元品の無明」も具わっている。
 「元品の無明」とは、生命に具わる根源的な無知であり、ここから人間の尊厳に対する不信や他者への蔑視が生まれる。人間の不幸と悲惨の根本的な原因が、ここにあるのだ。
●本来、この現実世界は第六天の魔王が支配する国土とされる。法華経の行者が正法を弘めようとすると、第六天の魔王が自身の領土を奪われまいとして、魔の軍勢を率いて襲いかかってくるのだ。
 「十軍」とは、さまざまな煩悩を魔軍として10種類に分けたものである。『大智度論』には、こうある。
 ――(1)欲(2)憂愁(憂えること)(3)飢渇(飢えと渇き)(4)渇愛(五欲に愛着すること)(5)睡眠(6)怖畏(怖れること)(7)疑悔(疑いや悔い)(8)瞋恚(怒り)(9)利養虚称(利を貪り、虚妄の名聞に執着すること)(10)自高蔑人(自らおごり高ぶり、人を卑しむこと)――
 衆生が住む世界を支配しようとする第六天の魔王が、これら「十軍」を従えて、あらゆる手段を使い、法華経の行者を惑わし、圧迫してくるのである。
 では、この「十軍」に対して大兵を起こすとは何か。それは「己心の魔」との真剣勝負を開始することだ。

〈前進の人こそ生命の勝利者
 大聖人は、第六天の魔王の正体について、「元品の無明は第六天の魔王と顕れたり」(御書997ページ)と断じられている。
 真の平和建設を阻む「一凶」とは、この生命に巣食う「元品の無明」にほかならない。
 御聖訓には「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(同751ページ)とある。
 「元品の無明」を打ち破るには、生命の尊厳を説き明かした妙法への「信」を根本にする以外にない。
 人生で直面するさまざまな困難も、「勝つか、負けるか」「挑むか、逃げるか」「自分を信じるか、信じないか」の戦いであり、本質的には無明と向き合うことともいえる。
 妙法への「信」、換言すれば「必ず乗り越えられる」「必ず幸せになれる」「必ず広宣流布を実現する」という強い一念を失ってしまえば、人生の困難にも、広布の途上の障魔にも負けてしまう。
 その「信」を奮い起こすのが題目である。
 大聖人は続いて、「日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり」と仰せである。
 大聖人が「南無妙法蓮華経」の大法を打ち立てられた、建長5年の「立宗宣言」以来20年余――。権力の魔性に魅入られた為政者や聖職者たちは、大聖人を亡き者にしようと数々の迫害を加え続けた。弾圧は門下にも及び、投獄や追放、所領没収などが相次ぎ、「或はをち或は退転の心あり」とあるように、多くの者が退転していった。
 だが大聖人は堂々と宣言された。「日蓮一度もしりぞく心なし」と。
 何があっても前へ!――「勇気」「挑戦の心」「不退転の信心」がある限り、必ず壁は破れる。「臆病にては叶うべからず」(同1282ページ)である。
 池田名誉会長は語っている。「毅然と広宣流布へ『前進し続ける』ことができれば、その人はもう勝っている。生命の勝利者なのです」と。
 油断や慢心があれば、その心の隙を突いて、障魔は襲ってくる。ゆえに我らは勇んで広布に戦い続けたい。
 昨日よりも今日、今日よりも明日へと日々、自身に打ち勝ち、境涯を広げながら――。
   (聖教新聞 2012-10-30)