教学 広布を支える真心に無量の福徳

2012年11月21日(水)更新:1
【11月度座談会拝読御書「高橋殿御返事」に学ぶ】
《拝読御文》
 同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をたつ命をついで弥弥強盛の敵人となる、又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か(御書全集1467ページ1行目〜3行目 編年体御書1427ページ1行目〜3行目)


《本抄について》
 本抄は日蓮大聖人が、駿河国(静岡県中央部)の富士方面で門下の中心的な立場にあった弟子に与えられたお手紙の一部(断簡)と考えられます。そこから、高橋六郎入道に宛てたお手紙とされていましたが、詳細は不明です。御執筆の時期は、建治・弘安年間と考えられます。
 本抄では、法華経の行者を供養する功徳について教えられています。そして、大聖人のもとへ使者を遣わしたことについて、“釈迦仏や地涌の菩薩が、あなたの身に入り替わられているのだろうか”と称賛されます。
 続いて、「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」と、地域広布の使命を託され、さらに法華経を聞くことが縁となって人の生命に「仏種」(成仏の種子)が植えられることを教え、法華経の教えを説き広めていくよう望まれています。


《人々の幸福の実現へ大聖人直結で前進》
●大聖人が門下に送られたお手紙の多くは、御供養に対する礼状です。受け取った品物の名前を列挙され、心からのお礼の言葉をつづられています。御自身の生活を支えてくれる門下の心を大切にされ、その真心を称賛されているのです。
 供養の精神の根本は、“真心の志”にあります。しかし、供養する相手が、どういう存在であるかが大切です。
 拝読御文では、人の生命を支える米を御供養申し上げたことをたたえられていますが、同じ米であっても、「謗法の者」を養うことは、仏種を断つ者の命を永らえさせ、かえって悪となることを教えられています。
 今で言えば、この謗法の最たるものが日顕宗です。広布を破壊する「破和合僧」の大罪を犯した日顕宗に供養すれば、功徳を得るどころか、かえって悪道に堕ちてしまいます。
 さらに、「命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か」と仰せです。謗法の者への供養であったとしても、その人を助け、最終的には法華経に引き入れることになるであろうか、との意味です。
 謗法は厳しく責めながらも、法華経を信受させて成仏の道を歩ませるところに仏法の目的はあります。この御文は、あらゆる人々の成仏を願われた大聖人の大慈悲からの仰せと拝されます。


《拝読御文》
 又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、一切衆生を利益するなればなり

 ここでは、法華経の行者である大聖人に御供養した場合は、その米自体、「慈悲の中の大慈悲」の役割を果たすと教えられています。それは、法華経の行者は一切衆生を利益する広宣流布の実践に励んでいるからです。法華経の行者を支える功徳は絶大です。
 今、大聖人の御精神の通りに、現実のうえで広宣流布を進めているのは、創価学会をおいてほかにありません。
 万人の成仏を説く唯一の教えが法華経です。その法華経の精神のままに、末法広宣流布の道を開かれたのが大聖人であり、その道を世界広布の大道にまで広げてきたのが創価学会です。学会は大聖人直結で世界広布を現実のものとしたのです。人々の幸福のために行動する学会の使命と意義の大きさは計り知れません。
 わが身、わが財(たから)――自身の持てるものを何のために使うか。真心からの広布への貢献こそ、自身の福徳を大きくします。明年の総本部完成へ、創立の月から、ますます強盛な信心で出発していきましょう。


《名誉会長の指針から》
 日蓮大聖人は、「供養」について、次のように仰せである。
 「同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をたつ命をついで弥弥強盛の敵人」(御書全集1467ページ)(中略)
 「又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、一切衆生を利益するなればなり、故に仏舎利(ぶっしゃり)変じて米と成るとは是なるべし」(同ページ)(中略)
 同じ真心の「米」でも、相手によって正反対の働きとなる。謗法に供養することは、仏の怨敵、正法の破壊者を強めることであり、「悪」である。この道理を教えられている。
 信心の「真心」は大切である。成仏には、その心が不可欠である。とともに、その「真心」を成仏のために生かすには、権威や権力に惑わされず、真実を見抜き、正邪を判別する「賢明さ」が絶対に必要である。そのことを私どものために教えてくださっていると拝される。(『池田大作全集』第78巻)
   ◇ ◆ ◇
 日蓮大聖人は仰せである。「昔、徳勝童子という幼い者は、土の餅を釈迦仏に供養して、阿育(あそか)大王と生まれて閻浮提の王となり、最後は仏になったのである」(御書1380ページ、通解) 
 妙法のため、広宣流布のために真心を尽くすことが、どれほど尊いことか。どれほど偉大な功徳があるか。
 大変な時に護られる。一家も栄える。人間革命していける。
 生々世々、そして子孫末代まで豊かな福徳に包まれゆくことは間違いない。それこそ、世界一の王者のごとき境涯になれるのである。
 広布のための行動は、結局はすべて、自分自身のためになる。
 その根本は「信心」である。「心」である。
 御聖訓には、「凡夫は志と申す文字を心へ(得)て仏になり候なり」(同1596ページ)と仰せだ。
 法のため、広布のため――この一点に、真摯に、わが心を結び合わせていくことが大切である。そうでなければ、何をやっても空転してしまう。ここに、功徳を積む「方程式」があるのである。(2008・12・7付、各部代表協議会)


《拝読の参考 供養の精神》
 大聖人の仏法において、供養で大切となる観点が大きく二つあります。
 一つは、誰への供養なのかという点です。これは拝読御文に示されている通りです。
 もう一つは、どこまでも真心からの供養であることが肝要となる点です。
 御書を拝せば、供養をお届けした門下の真心を何より大切にし、称賛されていることがわかります。
 こうした門下の心を、大聖人は「心ざし」「志ざし」と表現されています。
 「仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へ(得)て仏になり候なり」(御書1596ページ)との御金言があります。「志ざし」によって凡夫は成仏できることを教えられた御文です。
 御書には、“これを供養すれば、きょうの命をつなぐ物もない時に、その食物を仏に供養すること”が、本来の供養の例として挙げられています。こうした信心の発露からの行動を、大聖人は最大に尊ばれました。
 供養には、自身の持てる物や財をささげて広宣流布を支えていくこととともに、自行化他の実践によって広布を前進させていくことも含まれます。
 「心こそ大切」(同1192ページ)です。どこまでも心を大切にする大聖人の御精神を銘記し、勇んで広布の活動に取り組んでいきましょう。
   (聖教新聞 2012-11-13)