福島から千葉へと避難。同郷の人々の孤独な心を癒やそうと訪ね歩いて

2013年2月16日(土)更新:4
【東北福光新聞】
《希望を紡ぐ日々 福島から千葉へと避難。同郷の人々の孤独な心を癒やそうと訪ね歩いて》 
●過ぎ去った日々の何気ないひとこまが、今はたまらなくいとおしい。夕飯のにおいに誘われて食卓に集まってくる家族。子どもたちの話に耳を傾け、上機嫌にほほ笑む夫。何度もおかわりを催促する息子……。
 そんな場面を思い起こしていると、木幡さん(地区婦人部長)の目に涙が滲んでくる。
      ◇
●震災が起きた時、長女は3人目の子の出産間近だった。被災者でごった返す避難所では、とても生活できない。婿の勤め先の配慮で東金市のアパートに移ることになった。木幡さんも、それに付き添った。
●「地区の皆さんはどうしているだろう」。
●木幡さんは、居ても立ってもいられず、皆の避難先へ飛んで行くこともあった。「大切なつながりを断ち切りたくない」という一心で皆の声を集めては、自作のかわら版「がんばっぺ新聞」を作り、各地に送り届けた。
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●そんなある日、福島からの避難者が、東京で踊りの集まりをしていると聞き、思い切って参加した。
 初対面の人ばかりだったが、同郷の人と悲喜(ひき)こもごもの思いを分かち合えたことがうれしかった。
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●「人の輪に自分から飛び込めない人もいるから」と、昨年10月、県の復興支援センターの協力を得て、ささやかなお茶飲み会を催した。15人ほど集まり、和気あいあいと語り合った。
 それだけで終わらせてはもったいないと、一人一人の所を訪ね歩いた。あらためて一体一で話すと、原発避難者の置かれている孤独が、ひしひしと胸に迫る。
 近隣との交流を避けて、部屋に一人こもっている人もいた。どんなにか寂しかったのだろう。故郷の話で打ち解けていくうちに、胸の内に抱え込んでいた思いが、堰(せき)を切ったようにあふれ出てきた。「また、ゆっくり来てちょうだい」と満面の笑みで送られると、もっと力になってあげたいと、やる気が湧いてくる。
 周りから「そこまでしてあげなくても」と言われることもある。だが、同じ苦しみを味わった人にしかできないことだ。そう思えば、今この場所にいる意味も感じられる。
 「それに、これって学会活動でいつもやっていたことですから。でも、ついつい話が長引いてしまって、1日に1人しか会えない時がほとんどなの(笑い)」
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●木幡さんの自宅がある地域は、年間積算放射線量が20ミリシーベルトを超える居住制限区域に当たる。少なくとも、向こう3年は住むことはできない。
 どんなに悩んでも「どうすればいいのか」答えは出ない。長女らは一家で近くに居を構えたが、次女の高校卒業までは、今の場所を離れるつもりはない。だが、借り上げ住宅の補償が切れ、とどまる理由がなくなれば、無理にでも答えを出さなければならない。
 もちろん、仲間と同志と浪江での楽しい生活を取り戻したいという願いが消えることはない。だが、それが実現する見込み立たない。住む者のいない家は急速に朽ち始めている。では、どうすれば?
 「どうせ決められないのなら、その分、この今を思いっきり頑張るしかない。悩み苦しむ人と一緒になって、今を精いっぱい生きるしかない。」
 いろいろ悩んだ末の結論だ。だから、2013年は何にでも挑戦しようと決めた。借り上げの自宅で始めたエステサロンも本腰を入れ出した。一から信頼を積み上げていかねばならないが、新たな地で「今」を精いっぱい生きる自分の姿が、少しでも同じ避難者の力になればと願っている。
 「この場所で粘り強く、とことん楽しくやっていきたい。絶対に負げでたまっか、です。東北婦人部の底力は無限大ですもの!」


《共に生きる未来(あした) 「被災地と世界を英字誌でつなぐ」 ローリングプレス 発行責任者》
●「この俺が、生きていいの。どうして……」。以来、「生かされたこの命」を何のために使おうかと悩み続けました。
 がれきに埋まった事務所を前にぼう然としていた私を助けてくれたのは、在日外国企業の商工会議所から来てくれた外国人ボランティアチームでした。
●在日英国商工会議所の人たちは泥かきから始まり、「バック・トゥ・ビジネス」と言って、被災した人が事業を再開できるような支援のプログラムを作り、設備を整えたりしてくれました。フランスからの支援もありました。
 以来、彼らと連絡を取り合い、また講演会に呼ばれたりのやり取りが続きました。そのやり取りのなかで、「震災1年目に、石巻の様子が全米にニュースで流れたけど、被災の象徴的な場所の画像が流れただけで、人々の暮らしの様子がまったく分からなかった。支援したいと思っている人は世界中にたくさんいる。でも情報がない。今後、復興は長くかかるだろうから、現地からどんどん情報を発信してほしい」という声をたくさん聞きました。
 「自分のやるべきことはこれかな」という手応えを感じました。
●被災以前からの持続的な取り組みによって、人材もノウハウも蓄積されていたので、海外バックパッカーの経験しかない私でしたが、世界に向けて石巻の情報を発信しようと決意できたのです。
 まず、世界の人たちに「ありがとう」という気持ちを伝えたい。そして震災からの復旧・復興に命がけで取り組んでいる人たちの姿を伝えたい。長い歴史を持つ石巻の魅力をどんどん伝えていきたい、と思っています。
 驚いたことに、地元の方々からも入手したいという申し出が相次いでいます。「英語わがんねけどさ。ボランティアに来てもらって、世話んなったけど、どうしたら今の自分たちのことを伝えられるか、わがんねから、これ送りたいんだー」と語られるのです。「真心と真心で被災地が世界とつながっているんだなぁ」と、あらためて気付かされ、心揺さぶられました。「ローリングプレス」も、まだ、小さい試みですが、こういう試みがあったおかげで、いろいろな人たちとつながることができました。 国や政府経由ではなく、一人一人が直接世界とつながり、知恵と力を出していく時代が来ているのです。
   (聖教新聞 2013-02-16)