わが手で、断じて奈良の広宣流布をするのだ!

2013年4月25日(木)更新:5
・『きっと、この病を治してみせる。その時、誰もが仏法の力に驚くだろう 』
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【新・人間革命 勇将 五十八】
 有田幸二郎・信子夫妻は、まさに二人三脚で、広宣流布の険路を突き進んでいった。
 何時間も、電車やバスに揺られ、同志の指導、激励に行くことも珍しくなかった。奈良県南部の十津川や、下北山にも足を運んだ。
 帰途、山道が土砂で閉ざされ、バスが運行できなくなったために、夜を徹して、歩いて山を越えたこともある。
 夫妻は、当初、“宿命転換のために、信心に励もう!”と、必死に頑張った。やがて、教学を学ぶなかで、広宣流布に生きる使命を自覚し、喜びと誇りを感じていった。
 “私たちは、地涌の菩薩なんだ! 日蓮大聖人との、久遠の誓いを果たすために、私たちは今、この時に、この地に生まれてきたのだ! わが手で、断じて奈良の広宣流布をするのだ!”
 そう思うと、力が湧いた。
 山本伸一が第三代会長に就任した翌年の一九六一年(昭和三十六年)三月には、奈良支部が誕生し、有田夫妻は、支部長、支部婦人部長に任命された。
 東京・台東体育館の壇上で、有田幸二郎は、山本会長から支部旗を受けた。
 「しっかり頼みます!」
 「はい!」
 その時の支部旗の、ずっしりと重い感触がいつまでも両腕に残った。
 それは、奈良の広宣流布を担い、全支部員を幸せにする責任の重さのように、彼には思えた。
 「奈良広布に私たちの人生を懸けよう!」
 有田夫妻は、心の底から誓い合った。怒濤のごとく、弘教の大波は広がった。
 御聖訓には「此の法門を申すには必ず魔出来すべし」(御書一〇八七ページ)と。支部発足から二カ月後、有田の家の塀に、彼らを罵倒する言葉が、白いペンキで大書された。
 「有田よ恥を知れ」――学会を憎む何者かによる、卑劣な仕打ちであった。
 “これが広宣流布の道だ! 学会が正義であることの証明だ。負けるものか!”
   (聖教新聞 2013-04-22)