私は「人間の精神の力」を信じる

2013年5月19日(日)更新:1
【響き合う魂 SGI会長の対話録 第4回 平和と科学の「20世紀の巨人」 ライナス・ポーリング博士】
●池田SGI(創価学会インタナショナル)会長との対談集『「生命の世紀」への探求』でも、博士は語り残していた。
 「私は核兵器反対の立場をとりましたが、その決断を促す決め手となったのは、妻から変わらぬ尊敬を受けたいという私の願いでした」
 「私の最大の師は妻であったと考えています」
●博士の関心が研究室の中だけに留まっていれば、その93年の生涯は、称賛と尊敬だけに彩られたものになったろう。
 しかし現実に、博士が直面したものは“共産主義者”のレッテルだった。州・連邦議会からの召喚(しょうかん)、海外渡航の制限、勤めていた大学当局からの圧力、マスコミの攻撃が博士を襲った。
 ひとえに、ソ連に対抗するには原水爆が必要と主張する多数派に抗し、頑として核兵器廃絶を叫んだからにほかならない。
 その源には、国家でなく「人類」に奉仕するという信念があり、自分の主張が論理的に誤りでない限り、絶対に曲げないという覚悟があり、励まし続けた夫人の支えがあった。
      ◇
 博士の本格的な「人間主義者」としての歩みは、第2次世界大戦の頃、始まる。
 アメリカで日系人の強制収容が行われても、夫妻は、日系人の庭師を雇い続けた。
 “私たちはジャップ(日本人の蔑称)が好き”と、ペンキで家の車庫に書かれた。匿名の電話、脅迫の手紙が届いた。それでも夫妻は、庭師を守った。
 広島と長崎に原爆が投下されたことを知ると、博士は数カ月のうちに、核兵器の脅威を訴える講演を始めている。
 「父は、どちらかというと、感情をうまく表せるほうではなく、感情を内部に押し込めてしまう性格でした」(子息のポーリング・ジュニア博士)
 そんな博士に、話の内容をアドバイスし、勇気づけていったのはエバ夫人である。
 博士はやがて、核兵器放射能の恐ろしさと説得力をもって大衆に伝える、核兵器反対運動の旗手となっていった。
●58年には、1万人以上の科学者の核実験反対署名を国連に提出。その中には、37人のノーベル賞受賞者が含まれていた。
 一部の政治家は驚嘆し、背景に、何らかの組織が動いているのでは、と疑った。あれほどの大規模な署名が、夫妻だけで可能なはずがない――と。
 60年6月、博士は連邦議会の上院に呼び出され、“署名集めを手伝った人間の名前を答えよ”と要求された。
 議会侮辱罪を覚悟の上で、博士は答えることを拒否した。
 「私は共産主義の理想と目的のために奉仕したことはない」
 「社会的、政治的な問題や、戦争を防ぎ、世界の平和を守るという大きな問題についての活動のなかで、私は全人類以外の何者にも奉仕したことがない」(『ポーリングの生涯』石館康平訳)
 63年夏、不十分ではあるが、博士らの戦いが報われる時が来た。「部分的核実験禁止条約」が調印されたのである。
 そして、同条約が発効した10月10日、博士自身に朗報がもたらされた。「ノーベル平和賞」受賞のニュースであった。
 「ニューヨーク・タイムズ」紙は評した。「他の人びとは自分の国のために、イデオロギーのために、とりわけ権力のために発言したのに対し、ライナス・ポーリングは人類の立場にたって発言した」(前掲書)
       ◇
 博士とSGI会長の出会いは4度。米クレアモント・マッケナ大学でのSGI会長の講演(93年1月29日)では、博士がコメンテーターを務めている。
 「私たちは十界論のうちの『ナンバー・ナイン』、つまり菩薩の精神に立って行動するよう努力すべきです」
 「私たちには、創価学会があります。そして、宗教本来の使命である平和の建設に献身される池田会長がいます」
 子息のポーリング・ジュニア博士によれば、晩年、博士の事務所には、SGI会長との対談集が積み上げられていた。「著名な人には、会った時に必ず贈呈している」と、博士は話していたという。
 「父は本当に親しく、自分の考えや気持ちを池田会長に話していました。それだけ父は、会長に感銘していました」
 2人の友情は家族に受け継がれ、今も続く。93年3月の最後の会見で約束した「ライナス・ポーリングと20世紀」展も実現され、世界で100万人以上の入場者を集めた。
 博士は書き残した。
 「世界には軍事力や核爆弾という悪の力よりも更に偉大な力がある。善の力、道徳や、ヒューマニズムの力である。私は人間の精神の力を信じる」(『ノーモアウォー』丹羽小弥太訳)
 博士こそ、「人間の苦悩を最小にする」ために命を燃やし、「人間の精神の力」を証明した“科学菩薩”であった。
   (聖教新聞 2013-05-18)