体である信心が確立されてこそ影である仕事や世間の事も順調に進む

2013年7月8日(月)更新:6
・『極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20170806


【新・人間革命 奮迅 五十五】
 質問した青年は、山本伸一の指導に、笑顔で頷いた。
 伸一が青年の質問に答えていた時、会場に入って来た、背広姿の恰幅のよい壮年がいた。この壮年は、繊維を取引する会社の社長をしており、「暇がないから」と言って、学会の役職に就くことを避けてきた。
 伸一は、質問した青年に、さらに語った。
 「とかく仕事が忙しいと、“いつか暇になったら、学会活動に励もう”と考えてしまいがちです。しかし、それは間違いです。どんなに多忙であっても、自分のできることを精いっぱいやっていくんです。
 というのは、信心が後退すれば、仕事の面でも、行き詰まりが生じてしまうからです。
 日蓮大聖人は、『仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり』(御書九九二ページ)と仰せになっています。
 体である信心が確立されてこそ、その影である仕事をはじめ、世間のことも、順調に進んでいくんです。また、たとえ、仕事等で困難に直面することがあったとしても、見事に乗り越えていく力が出るんです。
 戸田先生は、ご自身の事業が行き詰まってしまった要因の一つは、自分が第二代会長になるのを避けてきたことにあると、私に語ってくださいました」
 その時、戸田は、こう言ったのである。
 「私は、牧口先生の遺志を受け、会長として立って、広宣流布の指揮を執らねばならぬことは、よくわかっていた。しかし、会長職の責任の重さを考えると、ためらわざるを得なかった。とても、あの牧口先生のようにはできぬと思ったからだ。しかし、それは、仏意仏勅に反することであった。
 自分が躊躇していた分だけ、広宣流布を遅らせ、民衆は不幸に喘ぎ続けた。私は、自分の事業が完全に行き詰まって、初めて目が覚め、そのことに気づいたんだよ。
 私たちには、広宣流布という久遠の誓いを果たす使命がある。学会の役職は、そのための責任職だ。疎かに考えてはならん」
   (聖教新聞 2013-07-08)