自行化他にわたる実践のなかにこそ自身の真実の幸せがある

2013年7月18日(木)更新:7
・『勇気なくば会員を守れない。広布勝利はない。自身も不幸にしてしまう』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20170923


【新・人間革命 奮迅 六十四】
 東京・信濃町創価文化会館内にある広宣会館を、婦人たちのまばゆい笑顔が埋めた。
 「ようこそ! お会いできて嬉しい!」
 三月七日の午後二時過ぎ、埼玉県のブロック担当員の集いに、山本伸一が姿を現した。大拍手と歓声が起こった。
 「では、一緒にお題目を唱えましょう。埼玉の広宣流布と、皆さんのご健康、ご一家の繁栄を願っての唱題です」
 伸一は祈った。懸命に祈った。愛する埼玉の同志の大勝利を!
 唱題のあと、彼はマイクに向かった。
 「信心はなんのためにするのか。それは、成仏のためである。広宣流布のためである。
 成仏について大聖人は、『い(生)きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり』(御書一五〇四ページ)と仰せであり、“生の成仏”と“死の成仏”を説かれている。
 つまり、成仏は、死後の世界のことだけではありません。今、生きているそのままの姿で、仏の生命を開き、幸福境涯を確立することができるんです。真剣に唱題し、仏の生命を顕していくならば、そこには、人間革命があり、幸福境涯の確立があります。
 御本仏・日蓮大聖人は、平等大慧(びょうどうだいえ)であられ、一切衆生の成仏のために戦われた。したがって、その大聖人の末弟であるならば、この偉大なる妙法を、人びとに教えていくべき責任をもっております。
 もし、自分だけの幸せのみを願ってよしとする生き方であれば、それは、あまりにも無慈悲であり、仏法上、慳貪(けんどん)の罪となってしまう。また、それでは、道理のうえからも、エゴ的な生き方といわざるを得ません。
 自分のみならず、周囲の人びとも、共に幸せにならなければ、自身の本当の幸せはない。ゆえに、自行化他にわたる実践のなかにこそ自身の真実の幸せがある。そこに私どもが、広宣流布に、さらには立正安国に生きるゆえんがあるんです」
 宗教が、他者の苦悩に、社会に背を向けてしまえば、それは宗教の使命の放棄である。
■語句の解説
 ◎平等大慧など/平等大慧とは、一切衆生を平等に利益する仏の広大な智慧のこと。 慳貪とは、物を惜しんで人に与えず、貪り求めて十分に満足できない心のこと。  
   (聖教新聞 2013-07-18)