我らは「千年の知己」 平和の世界を共に

2013年8月1日(木)更新:3
【響き合う魂 SGI会長の対話録 第11回 韓国・慶熙大学創立者・趙永植博士】
 「創立者の心は、創立者にしか分からない」と、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長は言った。
 韓国の名門・慶熙(キョンヒ)大学を創立した趙永植(チョヨンシク)博士と、創価大学を創立したSGI会長。
 2人は、互いを「千年の知己(ちき)」と呼んだ。教育によって、戦争なき平和社会、物質主義を超えた人間主義の世界を築こうとする「同志」であった。
 初の出会いは1997年11月1日。創大祭・白鳥祭のメーン行事「創価栄光の集い」を、共に見守った。
 韓国からの留学生と、ハングル文化研究会の学生が「平和の歌」を歌い、舞う。
 作詞は趙永植博士である。

 2度と過ちを繰り返すものか
 2度と美名にだまされるものか
 戦争で得た栄光は 地獄の栄光
 戦争では 幸福は得られない
 人間が戦争を征服できなければ
 戦争が人間を征服するだろう

 歌が終わると、博士は立ち上がって拍手を送り、SGI会長と抱擁を交わす。あいさつで、ほとばしる真情をそのまま話した。
 「創価大学の皆さまが、未来の大指導者に育っていくことが大切です」
 「池田先生がどれほど苦労され、ここまで築き上げてこられたかを思うと、感激でいっぱいです」
 SGI会長は語った。
 「誠実なる人間教育の交流は、足し算というよりも、掛け算です」
 「頼もしき『兄の慶熙大学』と、『弟の創価大学』が、ともどもに手を携え、人間主義の太陽で東洋を照らし、『生命尊厳の黄金の世紀』を輝かせていきたい」
       ◇
 趙博士が、前身の新興(シンフン)大学を引き継いだのは51年5月。奇しくも、SGI会長の師・戸田城聖第2代会長が就任した月である。
 「慶熙大学」として出発したのは60年。SGI会長が、第3代会長に就任した年である。
 博士を大学建設に突き動かしたもの。それは、自身が味わった、日本による抑圧と、朝鮮戦争(韓国動乱)による民族分断の悲劇であった。
 「わが祖国の未来のために、自分ができることは何か? 私は思った。教育立国(りっこく)という意志をもたねばならない、と」
 44年1月、平壌ピョンヤン)にいた博士は、学徒兵として日本軍に召集される。韓国人学生に対する「学徒動員」の一環だった。
 同志と共に「学徒兵義挙(ぎきょ)」に決起。この抗日(こうにち)運動のため、憲兵に連行され、45年8月15日の「光復(こうふく)」の日まで6カ月の獄中闘争を貫く。
 だが、ようやく植民地支配から解放された祖国に待っていたのは、同胞同士の争いであった。
 博士の故郷は、現在の北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)にある平安北道(ピョンアンプクト)。だが博士は、「自由があってこそ人間」と、熟慮の末に韓国に渡る。47年のことだった。
 50年6月に朝鮮戦争が勃発すると、博士自身も避難民となった。
 こうした辛酸と激動のさなか、私財を投じ、借金までして、49年に創立されていた新興大学を引き継いだのである。
 「ご夫妻は、本当に命がけで、大学を建設してこられましたね」
 SGI会長が労苦をたたえると、博士は応じた。
 「ええ。大学には、命をかけてきました……」
 短い一言に、千鈞(せんきん)の重みがあった。98年5月、SGI会長が慶熙大学のソウル・キャンパスで「名誉哲学博士号」を受章した折の対話である。
 新興大学の設立当時、同キャンパスのある高鳳(コファン)山は、荒れ果てて裸同然の山。博士は、シャツ1枚になって、自ら一本一本、木を植え、花を植え、石を置いて、大学の環境を整えていった。
 慶熙の人々は、博士を「無(む)から有を創造する人」と呼んだ。
 経営は苦しく、教職員に渡す給料に事欠くこともあった。呉貞明(オジョンミョン)夫人は、その足しにと、大切なダイヤモンドの結婚指輪を質店に持参した。だが、「本物かどうか分からない」と断られてしまう。
 涙にむせんで夜道を歩き、電信柱にぶつかった。額に残る傷痕は“お母さんの勲章”と呼ばれた。
 この建設の苦闘の果てに、慶熙大学は韓国の「最優秀大学」に何度も輝くほどの“私学の雄(ゆう)”となり、幼稚園から大学院にいたる総合的な人間教育機関「慶熙学園」へと発展。
 韓国と世界に貢献する有為(ゆうい)の人材を、多数輩出している。
       ◇
 「お互いに愛し、心が相通ずる友を得て、これ以上の喜び、これ以上の幸せはありません」「二つの大学が、先頭に立って両国の主軸となり、歴史的な使命を果たしていきましょう」(趙博士)
 2人の出会いは、博士76歳の年と遅かったが、万代へつながる韓日の「宝の橋」が築かれた。
 97年11月、趙博士が創価大学を訪問すると、翌98年5月、今度は趙博士の招きで、SGI会長が、ソウルと水原(スウォン)の慶熙大学キャンパスを訪問。同大学の「名誉哲学博士号」を授与された。
 99年5月、SGI会長が済州(チェジュ)大学で「名誉文学博士号」を受章した際には、趙博士も祝福に駆け付けている。
 最後の語らいは2003年1月の東京・聖教新聞本社。
 先だって創価大学を再訪した趙博士は、本部棟の堂々たる姿を喜んだ。「大学内の建物はもちろん木一本、石一つにまで心が配られている。魂が込められています」
 そして、物質万能主義、科学技術至上主義の世界を憂い、「今、人類に必要なのは『新しいルネサンス(人間復興)』です」と。
 これこそ趙博士が人生をかけてきた壮大な理想であり、会うごとに、SGI会長と誓い合ってきた目標であった。
 「池田先生のような偉大なリーダーが、この世界を変えていくべきです。人類の新しいルネサンスへ、一緒に進みましょう!」
 ――昨年2月、「千の事業を成し遂げた」と言われる平和と教育の巨人は、90歳で逝いた。しかし、その大情熱は、長男の趙正源(チョジョンウォン)元総長、次男の趙仁源(チョイヌォン)総長へ受け継がれた。
 慶熙大学創価大学は97年9月に学術交流協定を結んで以来、首脳の往来、留学生の相互派遣が続き、友好の水かさは増している。
 本年5月には創大の田代理事長が慶熙大学のソウル・キャンパスを訪問。趙仁源総長に創立者の伝言を伝えた。その際、趙総長は、間近で見てきた2人の友情の歴史を述懐しつつ、「今後も慶熙大学は、創価大学と共に発展していきたい」と強く語った。
 SGI会長が博士との出会いに贈った詩「新しき千年の黎明」。
 そこにつづられた思いは、志ある青年たちに託されていく――。

 いざ 我らは
 信義と友情の絆を固く
 「戦争と暴力の世紀」から
 「人権と生命の尊厳の世紀」へ
 第二のルネサンスを仰ぎ

 ともに 共々に
 新しき千年の黎明を
 獅子奮迅と開きゆかなむ
   (聖教新聞 2013-07-27)