「平和ほど尊きものはない」

2013年8月14日(水)更新:6
【小説「新・人間革命」執筆開始20周年 「平和ほど尊きものはない」 生命尊厳の叫び今こそ 米・デューイ協会ガリソン元会長にインタビュー】
〈海外13言語で翻訳・出版 新聞の連載回数日本一を更新中〉
《人類史上、最も残酷な日から平和の再生に立ち上がった》
 ――小説『人間革命』は、戦争の最も厳しい惨禍の地・沖縄で執筆が開始されました。そして、小説『新・人間革命』は、戦争の最悪の落とし子ともいうべき広島への原爆投下の日である8月6日に書き起こされました。そこに、戦争の悲劇の地にこそ平和の種子を、とのSGI会長の深き意図、そして決意があります。
 ガリソン博士 私はその意義を、仏法の生命尊厳の法理に照らして考えてみたいと思います。
 仏法は、一切の生命の平等と尊厳を説いた普遍の法です。その法を最大に侵害するものこそ戦争です。その惨禍が深ければ深いほど、人々は生命の尊厳の法の滅亡、すなわち“末法”を予感せざるをえません。
 しかし、普遍の法それ自体は、いかなる環境にも、また条件においても、滅することはありません。
 問題は人々が、極限状況のなかで、法を信じ続けることができるか否か、ということなのです。その意味で私たちは、末法こそ新たな法の誕生の時と覚知した日蓮の勇気と英知を改めて評価しなければならないでしょう。
 もちろん、新たな法の誕生、あるいは創出といっても、無から有を生み出すことは意味しません。普遍の法を時代や社会の環境の変化に応じて、さまざまな形で再生し、顕現していくことなのです。
 SGI会長はそれを、仏教ヒューマニズムの思想、人間革命の実践として示し表したのです。
  ――創価学会の牧口初代会長、戸田第2代会長は、仏法の正義を守るために軍部権力と闘い投獄されました。牧口初代会長は殉教の獄死を遂げましたが、戸田会長は生きて、戦後の学会の再建に立ちました。なかでも獄中での「仏とは生命なり」「われ地湧の菩薩なり」との覚知が、その後の大発展の英知の源となりました。その覚知こそが、仏法の普遍の法理を現代の言葉をもって蘇らせたのです。
 博士 その確かな悟りの智慧を、弟子であるSGI会長が世界に流布したのですね。私はここで、仏法の実践の生命である広宣流布という言葉の意味を検証しておきたいと思います。
 確かに“流布”という言葉には、法を広めるという意義があります。しかし、私はその“流れ”が、どこに発したかということに、より深く注目したいと思います。その流れは、戸田会長の「仏とは生命なり」との目覚めから、ほとばしり出たものなのです。
 ニーチェは、目覚めや悟りというものは、一人の特権として保持されるものではなく、全ての人々に分かち合うべきものである、と明言しました。
 事実、戸田会長の目覚めは、法の流れとしてSGI会長の生命に流れ入りました。
 そのように、生命の目覚めは、人から人へと流れ通っていくものでなければなりません。そうでなければ、流れはやがて止まってしまうのです。
 あるいは異なる時代や環境に適応しゆく、生きた法の流れではなくなってしまうといってもよいでしょう。
 この法理は、“一人の人間革命は一国の宿命の転換をも可能にする”との「人間革命」のテーマと深く共通するものといえます。

《一国の宿命転換から世界の宿命転換へ》
〈広島・長崎が問い掛けるもの〉
 ――『新・人間革命』が8月6日に書き起こされたことは、私たちに、“何に目覚めよ”と促したものであるとお考えでしょうか。
 博士 『人間革命』の執筆が開始された沖縄は、日本の戦禍を語るうえで、けっして忘れてはならない場所です。
 しかし、広島、さらには長崎への原爆投下による戦禍は、日本のみならず世界の歴史にとっても、最悪の出来事であったといえるでしょう。
 人間が戦争という名のもとに、他の人間に対して、これほど残酷な仕打ちができるのだろうか、と世界に厳しく問い掛けるものであったからです。
 そのうえ、原爆によって数十万の人々の生命が一瞬にして奪われただけでなく、それから60年余を経た今もなお、その災禍が世代を超えた人々を脅かし続けているのです。
 まさに、生命の尊厳の法を脅かす最大にして最悪の挑発です。
 しかしSGI会長は、この日を起点として、生命の尊厳の法の再生に立ち上がった、といえるのではないでしょうか。
 これ以上、破壊し尽くすことは不可能と思われる大地から、仏法の精神から最も遠くに位置する奪命の闇の世界から、普遍の法の光を蘇らせたのです。
 宿命転換の法理に照らせば、日本のみならず世界の未来にとって最悪の惨事の転換に立ったのです。
 ここで、“一国の宿命転換”のテーマは“世界の宿命転換”へと大きく飛躍を遂げたのです。
 『新・人間革命』が会長のアメリカをはじめとする世界への初訪問から書き起こされているのは、決して偶然ではないのです。

《価値を体得するために不可欠な読者の姿勢》
〈どのように読むべきか〉
 ――博士はデューイの著作を読み、デューイを師とも仰ぎ、教育の研究を深化されました。私たちも『人間革命』そして『新・人間革命』を身読し、創価の精神の継承と、自身の人間革命の実証を目指しております。では、どのようにすれば、私たちは著者の心と一体となり、その精神を自らの人生に正しく体現できると、博士はお思いですか。
 博士 詩心をもって著作を読むことです。詩とはギリシャ語で“創造”“行動”を意味する言葉です。
 ゆえに詩心をもって読むとは、読んで得た知識を現実の生活のうえに実践し価値創造する、との決意をもって読むことではないでしょうか。知識を知識として集積するようなものであってはならないのです。
 そのうえで著者とともに、そこに書かれた物語の新たな意味を発見していくことです。たとえ本を通してであっても、著者との心の交流を図り、一つ一つの物語を自身の身に引き当てて読み、自分自身にとっての新たな意味を、その物語からくみ取っていくことです。言い換えれば、『人間革命』を読んだ一人一人が、自らの「人間革命」の物語を綴り残せるよう努めていくことです。
 ――博士がSGI会長の思想への理解を深め続けている理由の一つも、著作を読む心構えにあったのですね。
 博士 いかに高尚な著作も、読者が本当に心を開かねば、その価値は自身の血肉とはなっていかないのです。書かれたものそれ自体が、私たちの心を開いてくれるわけではないのです。そして自らの心を開くとは、全ての予断や固定観念を捨て、純粋な眼で著作に触れていくことです。
 そのうえで真に価値ある著作とは、ひとえに読者に“語り掛ける”ものではなく“示し表す”ものであることも知らねばなりません。“このように考えよ”との固定した観念の言葉ではなく、“このように実践した”との行動を示すことによって真実を説き表すものであるからです。そこにSGI会長の思想、そして著作の真価があるといえるでしょう。

《SGI会長との出会いに学んだ創価の“永遠の青年”の精神》
 ――SGI会長が『新・人間革命』の執筆を開始したのは、戸田第2代会長との師弟の思い出が深く刻まれた長野の研修道場でした。博士もまた、2008年の8月、同じ研修道場でSGI会長との深い交流を結ばれましたね。
 博士 今なお、鮮烈に眼に焼き付いている場面があります。私が戸田第2代会長との初めての出会いについて伺った時でした。その思い出を語り出したSGI会長の眼が19歳の青年のように輝き始めたのです。
 会長が、初の出会いの思い出を“青年の魂”に立ち返り、心の底から、全生命をかけるように語り始めたことに、言い知れぬ感動を覚えました。同時に、日蓮仏法、さらには創価学会を貫く“永遠の青年”ともいうべき、瑞々しい精神の水脈を、そこに見る思いさえしたのです。
 会長が一貫して教育、そして青年の育成に全力を傾ける意義もそこにある、と感慨を深くした一瞬でもありました。
 さらに私は、会長の眼の輝きに師弟のあり方をも学びました。会長が戸田第2代会長の思い出を語る時、そこには敬虔にして求道の心にあふれた弟子の姿がありました。
 その姿に接して私は、SGI会長は戸田会長の英知の泉からあふれ出る生命の清水を、今なおくみ続けているのだ、と感嘆したのです。
 その清水を、今一度、胃の腑(ふ)に染み込ませ、英知の交流を追体験するような心構えをもって、戸田会長との思い出を私たちに語り掛けた時、SGI会長の五体に、青年の瑞々しい命が流れ通ったのです。それは、師弟の不滅の精神が流れ通う瞬間でもあったのです。

《戸田第2代会長からSGI会長へと流れる瑞々しい精神の水脈》
〈他の思想さえも蘇らせる力が〉
 ――SGI会長は戸田会長との初の出会いの感動を即興の詩に託して披歴しました。その一節の「われ 地より湧き出でんとするか」との言葉が戸田会長の心に深く響きました。
 博士 私も今、そのことを考えていたところです。その“地湧”の言葉は、戦後の廃墟にたくましく生い出ずる雑草の生命の力に対する感動を表現したものですね。その感動を戸田会長に啓発されて、伸びゆかんとする自らの決意と重ねたのですね。
 思えば戦後の創価学会の再建もまた、廃墟に生い出ずる若木を連想させてあまりあるものがあります。その若木は、あの広島、そして長崎の地にもたくましく育ちました。
 まさに、末法にこそ、新たな法が出現することの、如実な実証といえるでしょう。
 その新たな法は、SGI会長の英知に照らされた仏教ヒューマニズムの思想へと昇華され、世界に興隆する時を迎えたのです。

《仏教ヒューマニズムアメリカ・ルネサンスの響き合う生命主義》
 ――『新・人間革命』の第1巻で紹介されている「随方琵尼」の概念は、異なる思想や文化の尊重のうえに思想を流布すべきことを教えたもので、仏教の寛容性を示すものです。しかし、SGI会長の仏教ヒューマニズムの英知は、寛容を超えた次元に輝くものです。形骸化され、あるいは忘却された世界に固有の思想や文化を正しく理解するのみならず、それらを再生しゆく力さえ与えているからです。
 博士 SGI会長のエマソン、ソロー、ホイットマン、さらにはデューイを研究する識者との対談は、その好例といえますね。
 残念なことに、今、アメリカではこうした思想家の精神は、富の豊かさの追求に終始する風潮のなかで、忘却の危機にあります。
 しかし、会長はかつて健全なアメリカの精神の水脈を築いたアメリカ・ルネサンスの再生、すなわち“ルネサンスルネサンス”に大きく寄与しているのです。
 いずこの世界であれ、豊かな精神の脈動を止めてしまうのは、固定観念に縛られたドグマ(教条)です。そうしたドグマを打ち破るためには、多大な勇気と知恵が不可欠です。
 その意味でも私は、日本のみならず世界に遍満(へんまん)するドグマと闘い、万人に共通する普遍の生命の再生に立つSGI会長の貢献に深い敬意を表したいと思います。
   (聖教新聞 2013-08-06)