変毒為薬

2013年11月14日(木)更新:1
・『誓願の継承こそが、師弟の生命にほかならない』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20181022


【新・人間革命 若芽 十九】
 起工式を終えた東京創価小学校は、一九七八年(昭和五十三年)四月の開校をめざして、準備に入った。
 それからほどなく、国分寺市教育委員会から、国分寺市北町の建設予定地を史跡指定地とする旨の連絡があった。
 この土地に校舎を建設するには、遺跡調査を行い、出土品等はないことが確認されなければならない。その調査には時間もかかるし、出土品があれば、いつ工事に着手できるかもわからないのだ。そうなれば、七八年四月の開校は難しくなる。
 設立準備委員会のメンバーは困惑した。
 物事は、順調に運ぶとは限らない。いや、何事かを成そうとするなら、必ず予期せぬ困難が生じよう。その時に、活路を見いだそうと、懸命に知恵を絞り、粘り強く努力を重ねていくなかで、より良い、新しい道が開かれていく。それは、仏法で説く「変毒為薬」(毒を変じて薬と為す)にも通じよう。困難や試練に負けず、すべてをバネに、意気盛んに挑戦していってこそ、飛躍と勝利があるのだ。
 また、設立準備委員会の委員たちは、児童の健康のために、教室の窓が南向きになる校舎の建設を希望していた。しかし、国分寺市北町の建設予定地では、敷地の関係から、それが実現できないことが判明した。
 これらの事情を考慮し、創価小学校は、創価学園グラウンド南側の小平市上水新町に変更してはどうかとの意見が出された。この提案は、創価学園理事会に諮られ、検討の結果、決定をみたのである。
 それにともない、全体の設計も大幅に変更された。最終的に、校舎は、鉄筋コンクリート造りの三階建てで、普通教室は十八室。そのほかに音楽室、理科室、工作室、家庭科室、図書室、作法室、保健室、食堂などを備えた、延べ面積約六千二百平方メートルの校舎が造られることになったのである。
 開発の手続きや建築確認申請などを経て、工事が始まったのは、七七年(同五十二年)五月一日であった。
   (聖教新聞 2013-11-12)