笑顔と歌と創造力 「文化」が「暴力」に勝った

2014年2月1日(土)更新:3
【響き合う魂 SGI会長の対話録 第25回 南米・チリ民主化のリーダー エイルウィン元大統領】
 その人は、柔らかなほほ笑みをたたえて、地球の反対側からやって来た。
 軍政が、人々の恐怖を糧に生きていたとすれば、エイルウィン大統領が主導したチリの民主化は、明るい未来への希望を力にした。
 「厳しい現実の試練にも消し去れなかった微笑」。“エイルウィン・スマイル”について、かつてチリの新聞は書いた。軍政打倒がなぜ、どのように成し遂げられたかを、その笑顔が象徴していた。
 軍の長期支配に終止符を打ち、平和裏に民政移管を果たした立役者。その人が大統領となり、チリの国家元首として、初めて日本を訪れていた。
 1992年11月19日。過密日程の合間を縫って、都内の宿舎で会ったのが、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長だった。
 SGI会長は毅然として言った。「大統領は、貴国が一番、大変な時に立ち上がられた勇者です」
 「政治家としてはもちろん、私は、『人間として』偉大であるとたたえたい。『南米の模範』『世界の模範』となる貴国の発展をお祈りいたします!」
 会見は当初、15分ほどの予定だった。儀礼的な、あいさつ程度の内容で終わるのが普通である。
 ところが、SGI会長が「民衆に奉仕するリーダー像」に触れた時である。「あまりにも興味深い対話ですので、もう少し続けさせてください」と、大統領が語り始めた。
 「このことについて述べるには、まず、いったん政治の次元を超えたテーマに触れる必要があります。それは、人間が社会の中で何をなすべきかということです。
 人間の存在意義というか……人間は何のために生きているのか。これにはさまざまな答え方ができるでしょう。
 私はキリスト教徒として、人間は神と人間に奉仕するために生まれたと信じています。この考えを政治の世界で生かすならば、政治とは人々のため、交益のためにこそある。私はそう思います」
       ◇
 政治は人々のため――この根本の原則が「9・11」以来、チリでは踏みつけられてきた。
 チリの「9・11」とは、ピノチェト将軍がクーデターで、長い民政の伝統を葬った73年9月11日のことである。
 以降、軍政批判と見られる人々は根こそぎ逮捕され、2千人以上が公正な裁判なしに銃殺された。
 夫が、きょうだいが、父が、息子が、ある日突然、消えた。千人以上が公然と行方不明になった。
 心ある人々は、巨大な暴力に、知恵と創造力で立ち向かった。
 例えば「鍋たたき」である。あらかじめ決めた日の夕暮れ時、女性たちが一斉に鍋をたたいて、抗議の意思を示すのである。
 ベートーベンの“歓喜の歌”を抵抗の象徴として、ホテルマンやタクシーの運転手らが口ずさんだ。
 軍政は80年に新憲法を制定し、ピノチェト大統領が8年間、務めた後、88年に国民投票を行うことを定めていた。投票は形を取り繕うためのもので、圧倒的な権力と宣伝によって、容易に支配を維持できるという自信の表れだった。
 ところが、「この国民投票が民主主義回復の道を平和裏に切り開くことになろう」と、既に84年に表明した人がいた。「ピノチェトを彼自身の土俵で打ち破ろう」と。それが、エイルウィン氏だった。
 軍政に「シー(イエス)」か「ノー」か――。
 「ノー」が勝てると、当初は誰も信じなかった。ところが、四分五裂(しぶんごれつ)だった民主主義の勢力が、主義主張を超えて一つになる。投票するのに必要な選挙人登録に、700万人以上の人が参加した。
 民主化を目指す政党連合「ノーのための司令部」の代表は、エイルウィン氏だった。
 焦った軍部は、テレビで大宣伝を始める。将軍の演説を長時間放送し、民政時代の物資不足、行列、暴力事件などを流しては“「ノー」が勝てば、こんなに悲惨な国になるぞ”と、人々の恐れや不安に訴えようとした。
 一方、1日15分だけ認められた「ノー」の側のテレビ広告は、全く違った。
 母親、老人、ヘルメットの鉱山労働者、コック、学生――普通の人々が登場する。どの人も、笑顔で楽しそうだ。
 ♪チリよ、喜びはもうすぐやって来る――
 手拍子とともに、歌がバックに流れる。
 しかめっ面でなく笑顔を、恐怖でなく勇気を、不安でなく希望を人々に訴えたのである。
 そして、エイルウィン氏が落ち着いた声で呼び掛ける。
 「チリ人は真実を望んでいます。人権が尊重されることを望んでいます。経済成長を望んでいます。社会正義を望んでいます。真の民主主義を望んでいます」
 「『ノー』は、民衆が参加し、民衆が自身の運命を決められる民主主義を意味するのです」
 投票は88年10月5日に行われた。「ノー」の大勝だった。文化の力、希望の力が暴力に勝った。
 90年3月にエイルウィン大統領が誕生。16年半の軍政に、ついに終止符が打たれたのである。
       ◇
 「決して、これが最初で最後の出会いにならないことを望みます。この次は、ぜひ我が国で、大統領府でお会いしたい」
 ついには45分に延びた初会見の終わりに、大統領は言った。
 3カ月後、約束は果たされる。93年2月、SGI会長はチリを初訪問。25日に大統領府を表敬した。世界の平和旅の第一歩から、50番目の訪問国だった。
 「あれから会長とトインビー博士との対談集を全て読みました。本日は、訪問していただき、光栄です」と大統領。
 SGI会長は、チリの民主化と発展をたたえつつ、こう応じた。
 「『文化の力』は『知り合う力』です。『人間を結ぶ力』です。この力は、長い目で見るときに、何ものにも勝る威力となります」
 同年10月、SGI会長の両国友好と世界への貢献に対し、大統領の署名のもと、同国最高位の「功労大十字勲章」が贈られた。
 1期で退任し、94年7月、聖教新聞本社に来訪した元大統領と、3度目の会見。創価大学での講演も行われている。この来日の際、対談集発刊が合意され、のちに『太平洋の旭日』に結実した。
 昨年2月、SGI会長のチリ訪問20周年に寄せて元大統領は「SGIとの交流、そして池田会長との出会いは、私の人生における画期的な出来事であり、大事な節目だった」と、変わらぬ友情の声を寄せている。
 「ノー」の運動のシンボル――それは、鮮やかな虹だった。
 チリと日本は太平洋をはさんだ隣人。そこにもまた、平和と人権と友情の、大きな虹が架かった。

   (聖教新聞 2014-02-01)