「戦争の100年」から「平和の100年」へ (2)

2014年2月6日(木)更新:3
・『「戦争の100年」から「平和の100年」へ (1)』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20190927


【生命(いのち)の光 母の歌 第5章 「戦争の100年」から「平和の100年」へ (2)】

《サイフェルト博士 私は尊い犠牲を忘れない!過去の恐ろしい出来事から目をそらしてはなりません》
《池田SGI会長 青年よ非道の歴史に「憤怒」せよ!未来への深き「決意」を胸奥に厳然と刻みゆけ》
●池田SGI会長 お母さまのご苦労が偲ばれます。
 わが家も、第2次大戦中に強制疎開で壊され、新しい家も焼夷弾で全焼しました。
 私自身、爆弾が雨のように降る中を逃げたことも、炎上する家から必死に荷物を運び出したこともあります。
 4人の兄は次々と戦地に取られ、後には年老いた父母と、まだ幼い弟妹ばかりが残されました。
 一家を担う責任は五男の私の肩にかかっていましたが、小さい頃から病弱で、戦争による食糧事情の悪化と過労もあり、肺病を患いました。
 やがて終戦となり、出征していた兄たちは一人また一人と戦地から戻ってきましたが、2年近く経って、ずっと消息がつかめなかった長兄の戦死の報が届きました。最も頼りにしていた長兄でした。その時の両親、とりわけ母の悲しみの姿は、胸に焼き付いて離れません。
 戦争は、あまりにも残酷です。私は絶対に反対です。
 サイフェルト博士 そうでしたか……。一人でも戦争によって亡くなる人がいたら、それは本当に残念なことです。
 実は私の祖母も、大変な目に遭っているのです。東ドイツで飢餓に苦しみ、本当にかわいそうなことに、末の息子と夫を失いました。
 その祖母の夫は、わが子を死の床で看取り、同時刻に亡くなったそうです。これは、私の中では、到底、受け入れられるものではありません。
 平和という一点において、私は創価学会と池田会長に賛同します。人間は互いを理解するために歩み寄ることが最も大切です。つまり、他人を知ることなく、軽んじることによって、戦争は起こるのだと思うからです。
 池田 全く同感です。戦争は人間を人間と思わせなくしてしまいます。
 私はこれまで、折に触れて、民族やイデオロギー、宗教などの枠に当てはめて、人間を「抽象化」し、他者に「敵」というレッテルを貼って排斥していく危険性を指摘してきました。ファシズムスターリニズムによる災禍は、その最たるものです。
 そうした事実の上から、「20世紀の精神の教訓」をめぐって対話を重ねたのが、ゴルバチョフソ連大統領です。
 元大統領は語っておられました。「私たちが、戦争で生き残った『戦争の子ども』であるという一点を見逃すと、私たちの世代の人生も、行動も、理解することは不可能でしょう」と。「戦争の子ども」という一言には、私たちの世代に共通する体験や苦悩、辛酸、そして平和への強い願いが凝縮されています。
 サイフェルト博士もまた、「戦争の子ども」の一人として、ご家族の悲惨な体験を原点に、平和への行動を貫いてこられましたね。
 サイフェルト その通りです。こうした戦争の傷は、親から子へと継承されていくものなのです。
 私の両親はナチスから迫害を受けていました。そしてそれは、主に母のほうでした。というのも、前章でも少し申し上げましたが、母が盲目なのは、遺伝性のものだと非難されたからです。
 より詳しくお話ししますと、母を告発したのは、かかりつけの眼科医でした。その医師は、母が遺伝性疾病であると疑い、不妊手術の請求を裁判所に申し立てたのです。
 当時、母は、まだ父と知り合っていませんでした。しかし当然、彼女は子どもを産みたいと願っていました。法廷での戦いは困難を極めましたが、一人の医師の支援を得て勝つことができました。ナチスは、それほど人間を軽視した政権だったのです。
 池田 恐るべき魔性です。「反ユダヤ主義の毒を少しずつ服用させられていたおかげで、ヒトラーという致死性薬物にまで免疫になっていた」(ルーシー・S・ダビドビッチ著、大谷堅志郎訳『ユダヤ人はなぜ殺されたか 第1部』サイマル出版会)という痛恨の回想があります。
 ナチスによる迫害は、ユダヤ人のみならず、障がい者少数民族などマイノリティー(少数派)の人々にも及びました。
 まさに“同じ人間を人間と見ることのできない”毒に侵された狂気の悪行(あくぎょう)です。
 サイフェルト 私は、あの時代に、現実に起こったことを確かめるために、ポーランドのトレブリンカ強制収容所を見学したことがあります。
 ガス室の中にも入り、扉を閉めてみました。どんな気持ちになるのか、体験してみたかったからです。
 一番すさまじかったのが、そこに収容された人々のひっかき傷や爪痕(つめあと)が無数に壁に残っていたことです。本当に惨(むご)いことです。広島にも平和記念資料館があるように、若い世代にそれを見せていかなければいけないと思います。
 私は“この人たちの死を無駄にしてはならない”と、常に肝に銘じています。彼らの生命は、どこかにまだ存在しているのです。“自分はその時に、そこにいたわけではない”と責任から逃避することはできないと思うのです。
 自分の目で見ることが大切です。目をそらしてはなりません。人間が人間にしたことが、どんなに恐ろしい行為だったかを――。

   (聖教新聞 2014-02-06)