「戦争の100年」から「平和の100年」へ (5)

2014年2月13日(木)更新:3
・『「戦争の100年」から「平和の100年」へ (4)』
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【生命(いのち)の光 母の歌 第5章 「戦争の100年」から「平和の100年」へ (5)】
《理想は高く 連帯は強く 人間愛と正義の勝利を》
 池田SGI会長 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた。愚かな指導者たちに、率いられた国民もまた、まことに哀れである」
 私は小説『人間革命』を、この一節から書き起こしました。
 執筆開始は1964年(昭和39年)12月2日。着手する場所は沖縄と決めていました。というのは、第2次世界大戦中、日本で最も凄惨な地上戦が行われたのが沖縄であったからです。
 書き始めた時、すでに終戦から20年近く経っていましたが、沖縄はアメリカの施政権下にあり、その意味で戦争は“いまだ終わっていない”現実があったのです。
 小説は、45年7月の東京を舞台に始まります。敗戦前後の日本は、悲惨に満ち満ちていました。特に、多くの民衆は、やっと戦争が終わったという思い以上に、虚脱感と不安に苛まれていました。深刻な食糧不足で、ちまたは修羅の様相を呈していました。
 サイフェルト博士 第2次大戦後、ウィーンの大部分は破壊されておりました。当時の模様を知らせる、たくさんの古い映像が公文書館に保存されています。
 当時、私自身はまだ子どもでしたが、連合軍による占領時代のことは、今でもよく覚えており、どちらかというと、占領というより、保護に近い感覚でもありました。両親や他の大人たちとの会話から、多くのオーストリア人は、いまだにナチスの思想にとらわれていて、思想転換の過程は遅々として進まないと聞かされたことがあります。
 私が通っていたギムナジウム(日本の小学校高学年から高校に相当する)では、この(ナチスの)時代のことが教えられることはなく、教材はいつも第1次世界大戦で終わっておりました。
 その分、今日、若い世代の人たちには我々と違った教育に力を注ぐ必要があり、私たちの過去の歴史の脆弱な部分を教え伝えることで、旧世代が犯した過ちから学ばせることが大切だと思います。
 池田 真実を伝える歴史教育が、どれほど重要か。
 恩師・戸田先生もよく語られました。「歴史は大事だ。歴史は、過去から現在、現在から未来へ、より確実に平和をめざし、人類の共存をめざす道しるべとなる」と。
 そうした意味で、もう少し伺いたいのですが、オーストリアが戦後、復興を遂げていく中で、今でも心に残っている光景はありますか。
 サイフェルト 私が記憶しているのは、まだ幼かったころですが、ウィーン国立歌劇場やブルク劇場が再開したことです。とても高価だった入場券を購入することはできませんでしたが、その模様をラジオで聞き知ることができました。当時はテレビが普及していませんでしたから。あれは特別な思い出です。
 池田 「音楽の都(みやこ)」ならではのお話ですね。博士が親交を重ねてくださっているオーストリアSGIの女性リーダーは、おじいさまが戦後、ウィーン国立歌劇場を再建した建築家でした。「ウィーン市民に、失ったものを、往年の姿のまま取り戻させるべきである」との信念から、「歴史的施工図」に忠実に再建したことを、孫として誇り高く語ってくれています。
 この国立歌劇場は、1945年の3月の空爆で大きな被害を受けましたが、5月にドイツが降伏して戦火が収まると、その月の月末には早くも再建が発表されました。それから10年の歳月を経て完成し、55年11月に巨匠カール・ベーム氏指揮によるベートーベンの「フィデリオ」で新生の幕を開けます。ベーム氏といえば、民音招へいによる国立歌劇場の来日公演でも指揮を執ってくださったことが懐かしいです。
 ともあれ、権力悪に対する人間愛の勝利、正義の勝利を歌い上げたオペラを、オーストリアの人々は、ラジオを通して万感の思いで聴かれたのではないでしょうか。
 音感や演劇、芸術に注がれるウィーンの人々の熱情が、どれほど強く、深かったか。世界のどの都市も、はるかに及ばないものでしょう。
 サイフェルト ええ。この年(1955年)は、連合国との国家条約締結で、オーストリアが国家主権を回復し、占領していた連合軍が撤退したわけですが、私たちにとってオペラ劇場などの再開は、文化的な面において、同じくらい重要な出来事だったのです。当時のことを思い浮かべると、今なお、心臓がドキドキします。
 戦後のオーストリアでは、非常に優秀な政治家が輩出されました。彼らは良識豊かに、国家に新しい安定をもたらすよう努めたのです。
 池田 東西冷戦が激化する中にあっても、オーストリアの指導者たちは隣国ドイツのような国土の東西分割の回避を勝ち取り、一国での主権回復を実現しました。
 ナチス支配下での辛酸を共に嘗(な)めた指導者たちが、右派や左派との立場よりも、オーストリアのためという一点で緊密に協力し、政治・経済的安定が生まれたことも成功の一因とされていますね。その後の指導者たちが、永世中立国として冷戦時代に果たした役割も、大きく評価されています。
 貴国の政治家といえば、フランツ・フラニツキ首相のことが思い起こされます。1989年の10月、日本でお会いしました。当時は東欧革命の真っただ中で、会見の約2カ月前、オーストリアハンガリーの国境が解放され、東側の民衆が次々に西側へ脱出するという、歴史的な出来事がありました。そして、会見の翌11月には、冷戦の象徴であった「ベルリンの壁」が崩壊したのです。
 首相は私に、毅然とした口調で言われました。
 「ラテン語の格言には『平和を願うならば、戦争の準備をせよ』とあります。しかし、私はこの言葉を『平和を願うならば、平和の準備をせよ』と置き換えて、活動しているのです」と。
 サイフェルト その言葉には、心から賛同します。とともに、第2次世界大戦が終了して、すでに70年近くが経過しているのに、今なお流血の戦争が起こっています。言語に絶します。それには、私たち全員に責任があると思うのです。日本を含めた各国がそれぞれ、考えていかなければなりません。
 最近、ある戦争の危機が迫る国家間で、両国の市民たちがフェイクブック(インターネット交流サイト)を通し、互いに「戦争を望んでいない」「友人であることを望んでいる」といった真情を伝え合うやりとりをし、それが広く公開されたことがあります。これはまさに、現代の民衆が平和を望んでいるということだと思うのです。今は近代的媒体を通して、国際的にネットワークを築くことが、より容易になっているのです。
 池田 その通りですね。平和の実現こそ、世界中の民衆の真情です。
 平和の先覚の女性ズットナーは言っております。
 「本物の、筋金入りの平和の闘士は、必ず楽観主義者です。根っからの楽観主義者です……彼らにとって将来世界が平和になるというのは、単なる可能性の問題ではなく、必然のことなのです」(糸井川修訳)と。
 サイフェルト博士は、まさにこの断固たる信念で、文化と芸術の交流を通し、平和のために行動し続けておられます。
 私どもSGIも、平和社会の建設のために、国連を一貫して支援しつつ、世界192カ国・地域で、さまざまな連動を粘り強く展開してきました。なかでも、欧州SGIは、これまで、各界の識者を招き、宗教間・文明間対話の会議や平和展示などを実施しています。
 2007年9月、ドイツのヴィラ・ザクセン総合文化センターで行ったシンポジウムには、サイフェルト博士にもご出席いただきました(ヨーロッパ科学芸術アカデミーと東洋哲学研究所、ドイツSGIの共催)。
 国連ウィーン本部(ウィーン国際センター)では、SGI制作の「核兵器廃絶への挑戦と人間精神の変革」展を、ウィーンNGO(非政府組織)平和委員会との共催で開催しました(2010年10月)。同展はスイス・ノルウェー、イタリアなどでも巡回してきました。さらに力を入れていきたいと考えております。
 今こそ、平和を願う心ある人々の声を一段と結集し、市民社会の連帯を広げて、平和への流れを強めていかねばなりません。
 サイフェルト 同感です。平和のプロセスを推進することが大切です。常に、そこに焦点を合わせて行動することです。具体的に照準を合わせて、長期的に問題に取り組んでいくべきです。
 そして、世界平和の名のもとに人々が結集する中立的な場所として、ウィーンはとてもふさわしいのではと思っております。
 同じ目標や志を持った人たちと一緒に共同作業を行うことで、有意義なプロジェクトを推進できます。私は、SGIのネットワークを心から信頼し、皆さんに期待しているのです。 (第5章おわり)

   (聖教新聞 2014-02-13)