美しき心根の人材王国

2014年2月19日(水)更新:2
【太陽の励まし 池田名誉会長と誓いの同志〈63〉 群馬】
 群馬の冬といえば、乾いた「空っ風」。しかしこの2月は、記録的な豪雪で、被害が相次いだ。群馬をはじめ、各地の一日も早い復旧を、心から祈りたい。
 秀(しゅう)を競う浅間山妙義山赤城山榛名山の峰々。緑を潤す利根川の奔流。日天が燦々と照らす「太陽の国」。
 池田名誉会長は、幾たびもここ群馬に足を運び、その自然と町と人をたたえてきた。

 ああ 妙(たえ)なる自然が培った
 人びとの気質
 また清々しく 潔く
 進取にあふれ
 明朗にして快活
 信義厚く 情け深く
 私は この美しき
 心根の友を愛する
 美しき大地を愛する
 (長編詩「山河にこだます歓びの歌声」)

 戦後の“広宣流布の太陽”も、群馬から昇った。
 1946年(昭和21年)9月、戸田第2代会長は、戦後初の地方指導の足跡を、栃木と群馬の桐生にしるす。
 名誉会長もまた、会長就任の年、60年(同35年)に高崎、前橋を訪問。以来、安中、太田、伊勢崎、藤岡、渋川、草津などで、同志と鍛練の汗を流してきた。

《大丈夫だよ!》
 「両親が残してくれたもの――それは、まっすぐに池田先生を求め抜く『心』です」
 高崎市逆瀬川多か子さん(群馬池田総県福婦人部長)は語る。
 両親とは、小牧左門さんと敏子さん(いずれも故人)。若き名誉会長の激励を胸に、高崎広布の礎を築いてきた。
 夫妻は53年(同28年)の入会。父・左門さんは、同じ列車に乗り合わせた名誉会長の席に行き、激励を受けたこともあるという。昭和30年代後半の話だ。
 家族に明確に残された原点は61年(同36年)4月3日、名誉会長が高崎支部の結成大会に出席した時のこと。
 母・敏子さんが、この年1歳の広さん(壮年部員)を抱いて、名誉会長に駆け寄った。「先生! 息子の足が……」
 広さんは、6人きょうだいのうち、ただ一人の男子。先天性の「多指症」だった。
 名誉会長は広さんの足を優しくなで、微笑んだ。
 「大丈夫だよ! 子どもが大きくなって、気にするようであれば、手術すればいい。気にしなければ、そのままでいい。心配しなくていいよ」
 敏子さんの心に、希望がともった。“そうだ。何があっても負けない、強い子に育てればいいんだ!”
 広さんは手術をせず、運動神経も抜群で、活発な青年に成長。夫妻は勇んで学会活動に励んだ。
 「母の口癖は『わが家の“令法久住”をしよう』でした」と逆瀬川さん。母は6人の子に、師の偉大さを語り続けた。
 四女、小菅輝子さん(地区副婦人部長)、五女・金安弓子さん(支部婦人部長)は鼓笛隊の一員として、73年(同48年)6月10日、伊香保町(当時)で行われた「群馬・高原スポーツ大会」に参加。
 6人の子、孫たちも含め、一族そろって広布の庭で活躍し、後継の流れは厳然と築かれた。
 逆瀬川さんは言う。
 「先生を求め抜けば、必ず幸せな一家を築くことができる。心からそう思います」

《一変した強い声》
 渋川市にある「はるな池田記念墓地公園」。名誉会長は87年(同62年)9月の開園以来、ここで、多くの同志と宝の出会いを結んできた。
 尾上満亮さん(前橋勇者県、副支部長)もその一人。
 それは88年(同63年)7月、創価班として、駐車場に就いていた時のことだった。
 園内を回っていた名誉会長と、偶然の出会いが――。
 「こっちにいらっしゃい」
 運営役員が一列に並んだ。
 一人一人、声を掛ける名誉会長。尾上さんの隣の人に「いつもありがとう」と。
 “次は自分だ”――。
 実はこの時、尾上さんは、失意のどん底でもがいていた。
 前年7月、弟を不慮の事故で失う。追い打ちを掛けるように、母が子宮がんに。自身も、経営するタイヤ販売会社の業績悪化に直面していた。
 名誉会長が、尾上さんの前に立った。優しかった目が、にわかに鋭くなる。
 一変した強い声で「全部、分かっているよ!」。
 「何があっても頑張れ!」
 「男は、仕事で日本一になりなさい!」
 不思議だった。尾上さんの全身に、電撃が走った。「先生の声とまなざしは、『宿命を断ち切る!』という気迫にあふれていました」
 心が定まった。“何があっても負けられない!”
 ひたぶるに祈り、学会活動に走った。母の容体は好転。会社の取引先も年々拡大し、現在、約300社に。2011年(平成23年)には「環境に優しい自動車整備事業場」として関東運輸局表彰を受けるまでになった。
 今春には、念願の個人会館も前橋市に誕生する予定だ。
 「あの時の厳愛の励ましがなければ、今の自分はありません。先生との誓いである『仕事で日本一』を目指して、挑戦を続けます!」


《父を大事に》
 草津の群馬多宝研修道場も、はるな墓園と並ぶ人材育成の天地となってきた。
 草津県で婦人部本部長を務める伊藤美樹子さん(旧姓・北爪)にも忘れ得ぬ思い出がある。「1997年(同9年)7月24日でした。先生が、群馬青年部の代表と懇談の機会を設けてくださったのです」
 前年に群馬の女子部長に就任した美樹子さん。しかし、人知れぬ悩みを抱えていた。父・正彦さん(副支部長)の経営する商社が、倒産寸前に追い込まれていたのだ。
 自暴自棄になり荒れる父。父と共に会社を切り盛りしていた母・清乃さん(支部副婦人部長)と弟も、疲れ切っていた。学会活動から伊勢崎市の自宅に帰ると、「家の雰囲気はいつも真っ暗でした」。
 懇談は、その苦闘のただ中のことだった。
 「お父さんは何の仕事をされているの?」。名誉会長が美樹子さんに声を掛けた。
 「小さな会社を経営しております」
 それから、父母、2人の弟、同年6月に亡くなった祖母のことをつぶさに聞いてくれた。「北爪家は優秀だね。子どもたちを立派に育てたご両親が偉い。絶対に感謝の気持ちを忘れてはいけない」
 なかでも、強調したのは「父への感謝」であった。
 「『竜女の成仏』だからね。」御書に説かれる父子同時の成仏の法理に触れ、名誉会長はこう語るのである。
 「たまにはお父さんにお辞儀をして、『いつもありがとうございます』と言ってあげなさい。おまんじゅうでも買ってあげるんだ。そうすれば、『食べられないよ』と言いながら、あとで涙を流して、一人でこっそり食べるんだよ。父親というのは、娘がかわいくて仕方ないんだ」
 「お父さんを大事に。親孝行するんだよ。『先生が、お父さんによろしく言っていた』と伝えてください」
 この後、父・正彦さんの広布貢献に対し「金褒章」が贈られることも決まった。
 美樹子さんが自宅に戻ると、“緊急家族会議”が開かれる。名誉会長との語らいの一部始終を家族に伝えた。
 父は肩を震わせて泣いていた。涙を拭い、「金褒章なんて、今のお父さんには、とても着けられない……。でも、いつか、この章にふさわしい自分になるよ。その時まで、これは大切にとっておく」。
 父は、見違えるように仕事に打ち込んだ。1年のうちに家族全員が弘教を実らせる。
 父の会社の売り上げも回復。今では弟が経営を引き継ぎ、海外を相手に事業を展開するまでに。
 2000年(同12年)の夏。美樹子さんは、北爪家の勝利の実証と感謝を手紙につづり、名誉会長に届けた。
 名誉会長は詠んだ。「父母(ちちはは)も あなたも幸せ 北爪城」
 美樹子さんの感謝は尽きない。「先生は、太陽みたいだって思います。こちらが雨や嵐の時でも、変わらずに照らし、希望を送ってくださる。生涯、その心にお応えし、その心を伝えていきます」
 ――長編詩「山河にこだます歓びの歌声」はうたう。

 忘れまい
 あなたこそが
 「人材の王国」の
 王者 そして女王
 「使命の群馬」の
 最大の使命を果たした
 誉れの主人公なるを
 私は その人を
 もっとも 尊敬し
 守り 称えたい

 師の励ましに照らされて、「太陽の国」の友の胸に、今日も赫々と勇気の陽(ひ)は昇る。

   (聖教新聞 2014-02-19)