Strength

2014年2月26日(水)更新:1
●Buddhism teaches that life at each moment embraces all phenomena. This is the doctrine of a life-moment possessing three thousand realms, which is the Lotus Sutra's ultimate teaching and Buddhism's essence. Because of the profound way our lives interact with people around us, it is vital that we reach out to others, that we be engaged with our environment and with our local community. A self-absorbed practice or theory without action is definitely not Buddhism. Daisaku Ikeda

●The human spirit is the strongest force there is. As long as our spirit remains unbroken, there is no defeat. In life, spiritual defeat always precedes actual defeat. Guard against laziness, cowardice, carelessness, impatience, resignation and despair which corrode the human spirit and sow the seeds of defeat. Daisaku Ikeda

●Life is a never-ending struggle to grow.  Daisaku Ikeda

新生東北 since 2011.3.11〜 いまを刻む・明日を創る

2014年2月25日(火)更新:4
【新生東北 since 2011.3.11〜 いまを刻む 第22回 福光の軌跡――わが心と地域】
〈使命の花を咲かせる!〉
●松永さんは、頭の中を整理できず、心の休まるときがなかった。
 不眠が続き、めまいや吐き気に襲われる。一歩も外に出られない。“自分自身が壊れていく”と思った。
 避難から約半年。「パニック障害」との診断。“もう私はダメなのか……”
 そんな時だった。
 地域の白ゆり長はじめ、婦人部の友が訪ねてくれた。
 さりげない様子で、体調を気遣ってくれる心がありがたかった。
 “池田先生が手作りの、広布の組織に宿る心の温かさは、どこでも同じだ!”
 心に安らぎが芽生え、題目を唱え始めた。
 「願兼於業」(人を救うため、あえて宿業を背負い、願って生まれること)の法理を思う。これまで何度も学び、また人にも語ってきたことが、実感を持って心に迫ってきた。
 祈りが深まるほど、松永さんの心に湧き上がる思い。
 “ここで、もう一度、花を咲かせよう!”
 松永さんは楢葉町でボランティア活動として、地域で花を育ててきた。
 2012年(平成24年)の春。自宅の周辺の草むしりをし、花を植え始めた。震災直後のフェニックスグループの集いで受け取ったカモミールの種も植えた。
 “地域のために”と果たしてきた使命を再び開花させることが、“自身の生き方を取り戻すこと”と思った。
 「一本、また一本と、心で題目を唱えながらでしたね」
 近所の住民から声を掛けられるようになった。
 「いつも表に出てるね」「すごいキレイになったよ」
 一言一言が心の滋養となっていった。
 ある日、シマさんが利用する地域包括支援センター保健師から言われた。
 「介護予防サポーターをやってみたら?」。地域貢献に励む松永さんにぜひ、やってほしいと言うのだ。
 “今の私にできるだろうか”
 悩んだ。祈るなかで、思い出した。
 現在の住宅に入居した時のことだった。
 テレビ番組のインタビューを受け、語った。
 「避難生活で、多くの人に助けていただいた恩を返したいです」
●「一歩でも半歩でもいいんですよね。進めた喜びを味わえた」
 かつて池田名誉会長は語った。
 “「人間性の花」を咲かせながら、あの地にも、この地にも麗しい友情を広げていくのである”


《自らに生きることが誓願を果たす力に》
〈被災地の「光」伝えたい〉
●震災前、鴻巣さんは町の観光産業に尽力していた。06年には観光ボランティア団体「ガイドサークル汐風」を設立し、代表に。町の観光協会の理事にも就任した。
 震災後、「汐風」は語り部ボランティアとして復活した。その活動を通して、鴻巣さんの中で「観光」の意味が変わっていった。
 「観光」は「光を観る」と書く。
 「震災前は豊かな景観や食などが『光』でした。でも、その『光』が奪われて、見えてきたものがある」
 悲しみのどん底から立ち上がる不屈の魂。支え励まし合う温かな心。「光」は被災地で生きる人間の中にある――そう思い至ったとき、迷いがなくなった。
 被災者感情に配慮しながらも、町に脈動する「光」を伝えていく。その信念を胸に、再び全力で走り始めた。
 北は北海道から、南は兵庫県まで各地で講演した。観光協会と連携し、「汐風」は企業や学生、バスツアーなどのガイドを担当。震災体験を語り伝えた人数は、3万人を超えた。

   (聖教新聞 2014-02-25、以下も)


【2011.3.11〜未来へ 明日を創る コミュニティー再生――ある町内会の3年 移転か現地か 話し合い重ね復興めざす】
〈被災後初の訓練〉
●岡田学区全体の会館である岡田会館に移動し、消防隊員から、緊急時の人命救助・けが人搬送の方法の講義を受ける。立ち見がでるほど満員だ。用意していたスリッパも足りないほど。
 被災後、初めての訓練だった。防災のための訓練であると同時に、被災したコミュニティーがどれほど復活しているのかも試されていた。
 「こんなにたくさんの人に参加していただき、復興へ希望と自信を持てました」。南蒲生町内会の二瓶誠治会長の実感だ。

《歴史受け継ぎ「新しい田舎」創出へ》
三者三様の不安〉
●137年の歴史を刻む岡田小学校が3カ月間避難所となり、そして、仮設住宅などへと住民は移動する。この間、困難を共にしながら、町内会コミュニティーは維持された。
 2011年秋、仙台市が「震災復興計画」を策定した。計画には、大きな懸念があった。「危険区域」の「線引き」の問題である。区域内ならば、国の防災集団移転促進事業が活用でき、被災宅地の買い上げや移転先の用地取得などの補償・補助がある。区域外は、対象から外れる。住民の間に、復興の「差」ができてしまう――多くの被災地でも生まれている問題である。
 さらに、問題は複雑化した。仙台市津波被害のシミュレーションを見直し、地区の中心部の鍋沼集落が、危険区域から外れたのだ。行政の「計画」、地図に引かれた「線」に、人が翻弄されてしまった。
 危険区域内住民の集団移転、区域外住民の現地再建、そして、危険区域外だが、津波への恐怖などから、移転を希望する人もいる。「三者三様」の不安と悩みが交錯した。

〈一人一人に希望を〉
●「南蒲生をばらばらにしてはならない」
 声は次第に大きくなった。行政への要望は要望として、自分たちでできることは責任を持って再建に当たろう。
 2012年1月15日、町内会は、「移転再建」「現地再建」にかかわらず、一体となって復興を進めようと決め、「復興部」を作った。また8月には、若手グループ「南蒲生えんの会」を組織した。
 「みんなの意見を聴こう」。寄り合い、話し合いは、一年で、60回を超えた。
●取り組みを重ね、南蒲生町内会は、昨年3月、「南蒲生復興まちづくり基本計画」を策定した。そこには、「『新しい田舎』を目指す」と記された。


《二瓶 透 南蒲生えんの会代表 焦らず、長いスパンで考える》
消防団員だったので、道すがら生存者の捜索をし、避難所となっている岡田小学校で、家族の無事を確認すると、消防団活動を続けました。生存者の救出、不明者の捜索。車や消防団の倉庫の2階などで寝泊まりをしました。
 1カ月ほどたって、消防団活動が落ち着き、自分の家を片付けだし、ボランティアの人たちも来てくださって、なんとなく、希望が見えてきた感じはありました。
 南蒲生は、居久根や海岸沿いの防風林が津波で倒され、流された木がごろごろころがっていて、生活に支障が出ていた。そこで、知り合いのチェーンソー・アートの専門家に頼んだところ、全国から二、三十人が集合。震災の年に、亡くなった方々の追悼のために開いた盆踊りで彫ってもらい、景品で配りました。また、仮設住宅などから、地域に戻ってきた人たちの家の、道路に面したところにも置いてもらいました。今、それは南蒲生の「景観」となっており、地元でも、チェーンソー・アートを始める人たちも出てきています。
 「みんなの居久根」の取り組み、またチェーンソーの取り組みを通して、今まであまり話をしたことがなかった人とも、顔見知りになりました。3年やってきて、一番感じるのは、町内の人と人とのつながりがとても太く強くなったということです。あと、若い人たちが、自分の「町内会」を愛せるようになったことです。焦ってはいません。何十年後という、スパンで復興していけばいい。“子どもたち”、“孫たち”が、楽しく住める「新しい田舎」を作りたいし、いいものを作ったら、必ず継承していってくれると確信しています。

地平線を越えて SGI会長との心の絆 他

2014年2月25日(火)更新:3
【韓国・京畿道城南市から 池田大作SGI会長夫妻に特別顕彰牌】
●盛大に開催された城南市からの「特別顕彰牌」授与式。李市長(前列左から4人目)と参加者が喜びのカメラに(城南幸福文化会館で)
●韓国・京畿道の城南市から池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長夫妻に「特別顕彰牌」が贈られた。世界平和への多大な貢献を讃えるものである。授与式は1月21日、韓国SGIの城南幸福文化会館で挙行され、李在明市長はじめ市関係者、韓国SGIの金仁洙理事長、金殷瀾婦人部長、京畿第2方面の代表が出席した。
            ◆
 首都ソウルに隣接する城南市は、高層住宅が立ち並ぶ人口約98万のニュータウン。交通の要衝・物流の中心として栄え、近年は情報通信産業ベンチャー企業が集まる新興工業都市として発展を続ける。市民の生活満足度も高く、保育支援や介護事業の充実など、福祉にも力を注ぐ。
 同市を舞台に活動する城南圏、山城圏の友は、「仏法即社会」とのSGI会長の指導を胸に、高齢者支援、図書館への書籍贈呈、識者を招いての教育セミナーなどを展開してきた。
 “公平で思いやりのある温かな街”を志向する李市長は、こうしたメンバーの姿を通じて、SGI会長のリーダーシップに共感を寄せるようになった。そして、SGI会長の平和思想と行動を心から賞讃し、今回の授章を決定したのである。
 晴れの式典では、婦人部合唱団「ピースシンガーズ」が、美しい歌声を披露。李市長から韓国SGIの金理事長に「特別顕彰牌」が託されると、場内に割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
 あいさつに立った李市長は「池田会長夫妻がこれまで成し遂げてきた、世界平和と人類共存への献身的な努力に対し、深い敬意と感謝を表したいのです」と強調。希望輝く社会の建設に尽力するSGIと共に、さらに住みやすい城南市、首都圏をリードする都市づくりに、まい進したいと語った。

   (聖教新聞 2014-02-25、以下同)


【北海道・伝統の青年主張大会が士別市でスタート 本年186会場で実施予定】
●「青年の熱と力で、希望あふれる未来を!」とのテーマで行われた北海道士別市の青年主張大会(士別市民文化センターで)
 北海道の伝統の青年主張大会が23日、士別市でスタートした。
 同大会は1982年(昭和57年)の第1回以来、毎年、道内各地で開催。青年の語る信仰体験と社会変革への主張は、地域の名士や友人に共感と希望を広げてきた。
 33年目となる本年は全道186会場で実施予定。これには、池田名誉会長が祝福のメッセージを贈り、「自分のため、友のため、郷土のため、元気に青春を深く大きく勝ち飾っていってください」と望んだ。
 士別市の大会は士別市民文化センターで盛大に行われ、80人以上の友人を含む310人が集った。
 女子部の谷口綾さんが、さまざまな悩みを乗り越えながら夢だった保育士となり、病気の親を支えて奮闘してきた体験を発表。娘が太陽のように輝けば、一家も栄え、地域も社会も希望の方向へ進むとの信念に生き抜きたいと語った。
 男子部の飯田誠さんは、七つの国家資格を取得し、職場で活躍する様子や、自治会の役員として地域に貢献する喜びを披歴。縁する人の恩を忘れず、誠実に友情を広げる草の根の行動から時代を変える力は生まれると力説した。
 青年部の代表が合唱を披露。浜名北海道総主事が祝福した。


【地平線を越えて SGI会長との心の絆 フィリピン(下) 1991年】
《偉大な世界市民たれ!》
●会場を後にしようとするSGI会長は、力強く呼び掛けた。
 「世界一、立派な青年文化センターにしましょう。皆、そこで学び、成長し、英気を養って、世界中からも、多くの人に来てもらってはどうでしょうか」
●「どうか、その晴れの日を一つの目標に、全員が『幸福の王者』『幸福の女王』となって、一生を飾っていってください。また、必ず、お会いしましょう。きょう、お会いできなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝えください」
●「私たちは池田先生に、ずっとお会いしたかった。でも、“フィリピンの同志に会いたかった”という、それ以上の先生の心を感じました。
 先生の訪問によって、どれだけ多くの友が立ち上がったか。メンバーに希望を送る先生の誠実な振る舞いに、“同志に尽くし抜く”というリーダーのあるべき姿を教えていただきました」
     ☆
●容体は急激に悪化。98年2月、SGI会長がマニラを訪れた時には、ペンを握る力も残されていなかった。
 それでも弟子として、師のもとへ!――ネルソンさんは力を振り絞って、SGI会長のマニラ訪問への感謝を込めて手紙を書いた。
 受け取ったSGI会長は励ましの言葉を認めた。
 「ネルソン・シィ君! 頑張れ! この人生。君よ! 勝ちゆけ! 1998・2・11 マニラにて」
 そして、「手紙読みました。よく書いたね」との伝言とともに、ネルソンさんに贈ったのである。
●会長から贈られた言葉を見つめながら、語っていた。
 「ネルソンは、本当だったら85年の事故で亡くなっていたのかもしれませんが、転重軽受、更賜寿命をしたのだと思います。
 本当に幸せな息子でした。何より、池田先生にずっと見守っていただき、フィリピン広布に生き抜くことができたのですから」
 ネルソンさんの一番下の弟であるマヌエル・アンさんは今、長兄の思いを胸に、全国男子部長としてフィリピン全土を駆ける。次男、三男も広布の最前線で活躍している。
 個人会館はその後、増築を重ね、大きな仏間が二つある3階建ての宝城となった。昨年、音響や冷暖房機器を完備し、装いを新たにしたばかりだ。
 一家は経済的に何の不自由もなくなり、マニラ近郊随一の景勝地タガイタイ市に別荘を持つことができた。
 同市には、「フィリピンSGI総合文化センター」が立つ。“世界一の文化センターを”との91年のSGI会長の呼び掛けを受け、97年1月に完成したものだ。
     ☆
●SGI会長は長編詩「民主の空 希望の太陽」のなかで、フィリピン独立の英雄ホセ・リサールの言葉を引用し、次のように詠(うた)っている。
 「……リサールのごとく/あなたたちよ/偉大な世界市民であれ」
 「緑の島々を友愛の環(わ)がつなぎ/そして更に/友愛の翼がアジアを世界を一つに結ぶ/そのための信仰だ/そのための仏法だ」
 「庶民と庶民の心を結び/祖国フィリピンの/素晴らしい明日を信じて/今日の労作業に取り組もう/その一漕ぎ一漕ぎは/輝く明日への前進の歩み/いざ 進め 共々に/人間性の華咲く幸の港をめざして」
 フィリピン広布50周年の本年、マニラ市の「エスコルタ通り」にマニラ国際平和会館が誕生する。
 ここは第2次世界大戦の前、経済の中心地として栄えた場所で、戦争で甚大な被害を受けた。
 現在は、歴史的建造物が立ち並ぶ観光地として再開発が進む。リサールの手記のなかにも、「エスコルタ通り」が記されている。
 「リサールが待ち望んでいたような人材を、創価の師弟に生き抜く世界市民を、ここから多く育てていきたいです」と、アルカンタラ理事長。同会館建設に向けた思いをこう語る。
 「フィリピンのメンバーは、友の幸福のため、この国の安寧と繁栄のため、そして人類の希望の未来のために、懸命に仏法を語り広げてきました。
 池田先生が私たちに託された平和への思い。その師弟の誓願を果たすために、この新宝城から、フィリピン広布の新たな50年を切り開いていく決意です」

広宣流布の師弟の道を歩むことに、大きな誇りをいだいていた

2014年2月25日(火)更新:2
・『手を取り、時には共に泣き同苦して悲しみを分かち合っていただきたい』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20191214


【新・人間革命 正義 四十六】
 「今日も元気で」は、婦人部の愛唱歌として皆に親しまれてきた歌である。歌詞には、日々、喜びに燃えて広宣流布に走る婦人部員の、一途な心意気が表現され、曲も明るく軽快なリズムであった。
 ♪あかるい朝の 陽をあびて
  今日も元気に スクラムくんで
  闘うわれらの 心意気
  うれしい時も かなしい時も
  かわす言葉は
  先生 先生 われらの先生
 山本伸一の個人的な思いとしては、気恥ずかしさを感じる部分もあったが、婦人部にとっては、常に師と共に広宣流布に進もうという心を託した“師弟の共戦譜”であった。
 三重県文化合唱祭では、当初、婦人部のメンバーが、「今日も元気で」を合唱することになっており、練習を重ねてきた。しかし、それが中止になったのである。
 この文化合唱祭には、中部布教区の僧侶らも招待していた。当時、学会員が会長の山本伸一に全幅の信頼を寄せ、師と仰ぐことに対して、批判の矛先を向ける僧たちもいたのである。
 そこで、そうした僧を刺激してはまずいと考えてか、この歌は歌わない方向に決まったようであった。
 しかし、婦人部は納得できなかった。
 “なぜ、いけないのだ! 師匠を求める私たちの思いがこもった歌を、どうして歌うことが許されないのか!”
 彼女たちには、山本会長の指導通りに信心に励み、さまざまな苦悩を乗り越えて、幸せになれたという強い思いがあった。そして、広宣流布の師弟の道を歩むことに、大きな誇りをいだいていた。
 だから、ただ“歌が一曲、歌えなくなった”という問題ではなかった。自分たちの誇りが、いや、生き方そのものが、否定された思いがしてならなかったのである。

   (聖教新聞 2014-02-25)

Life

2014年2月25日(火)更新:1
●Gandhi taught people to live with lionlike courage, impressing upon them that they could not afford to leave things up to others, that they had to stand up for themselves and fight for justice. Ultimately, the only way forward is by developing self-reliance, forging a stand-alone spirit. That is the only path to victory. Daisaku Ikeda

●The struggle between happiness and unhappiness is the story of human existence. The struggle between peace and war is the history of the human race. The power that leads us to eternal victory amid these struggles is the power of good within us. Daisaku Ikeda

●To win today. To win now. From such effort and determination lead fresh paths toward whole new stages in our lives. Daisaku Ikeda

座談会 第一線で戦う人が最も尊い

2014年2月24日(月)更新:6
【世界広布新時代の旭日(25) 日々の学会活動に無量の福徳】
《第一線で戦う人が最も尊い
 「破邪顕正」こそ青年部の魂》
 竹岡 「伝統の2月」から「師弟の3・16」へ、全国の同志が、それぞれの目標に向かって、挑戦を続けています。
 杉本 池田先生は、本紙掲載の「新時代を開く」の中で、ただ師と共に、同志のために、「組織の第一線で戦う人が尊い」と綴られました(2日付)。
 原田 正しく地道に、そして勇気と真剣をもって、日蓮大聖人の仰せ通りに戦う人にこそ、功徳は歴然と現れます。広布の最前線で活動する同志に、無量の福徳が積まれることは間違いありません。
 正木 その主戦場こそ、地区、ブロックです。ゆえに、先生は、「誉れ高きブロック長、白ゆり長も、後継の男女青年部も、学会を支える支部長、支部婦人部長も、美しき団結で新たな前進を開始しよう!」と呼び掛けられたのです。
 吉井 ある時は、「大樹」と「根」にたとえて、「地区」「ブロック」の重要性を教えてくださったこともあります。
 杉本 大樹を支えているのは、根です。根は地中にあって、幾つにも分かれ、さらに広く深く張り巡らされながら、その一本一本が、水分や養分を吸い上げていきます。根が強く、伸び続けていれば、木は成長し続け、緑の葉を生い茂らせることができるのです。
 吉井 大樹とは学会のことであり、一本一本の根こそ、最前線の組織である地区、ブロックです。
 杉本 根は、地中にあるため、決して見えません。同じように、毎日の活動は地味かもしれません。しかし、その地道な実践こそが、広布を支える生命線となるのです。
 
〈平和と幸福の大道〉
 原田 青年部を中心に、地区、ブロックで仲良く団結し、励ましたたえ合いながら、弘教拡大の対話に、さらに取り組みたい。
 正木 思うように、弘教が進まない時もあるかもしれません。しかし、友のために悩み、祈り、語る、その行動自体が仏の振る舞いです。「乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(御書1132ページ)と仰せの通り、壁を破ろうとの必死の祈りが大切です。
 原田 自他共の幸福のための実践の中に、大功徳が湧くことは御書に照らしても絶対です。
 杉本 地域のために祈り、語り、動き、一人一人との友情を広げる。その一歩また一歩が、どれだけ尊貴なことであるか。ロシアの法華経研究の母であるヴォロビヨヴァ=デシャトフスカヤ博士が語られたことがあります。「私は創価学会の皆様に叫びたい。皆様の一歩は、日本のみならず世界の人びとを『平和』と『安穏』と『幸福』へ導く一歩なのです」と。
 橋元 大誓堂の「広宣流布 誓願の碑」の碑文にも、「広宣流布は、世界の平和と社会の繁栄を開きゆく大道なり。全人類を救わんとする、我らの久遠の大誓願なり」とあります。
 原田 私たちの日々の学会活動は、世界を平和と幸福へと導く一歩です。どうか、それを確信して、きょうも晴れやかに広布の大道を歩んでいきましょう。

〈「宗祖違背」の実態〉
 竹岡 さて、昨年刊行された『民衆勝利の凱歌?U――破邪顕正の広布史』(第三文明社)が好評です。
 吉井 創価新報の連載に加筆・編集したもので、日蓮大聖人の御精神のままの実践を貫いてきた、三代の会長による「創価宗教改革」の歴史が綴られています。
 橋元 嫉妬に狂った日顕の大謀略「C作戦」の発動から23年。当時のことを知らない青年部員も増えている中にあって、とても役に立つ研鑽資料といえます。
 竹岡 本書では、邪宗門の「法主本仏論」の誤りを明快に指摘しています。日興上人が、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(御書1618ページ)と遺誡されている通り、「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」が仏法の根本です。ところが、日顕宗では、法主を「現代における大聖人様」などと称し、服従を強要している。
 橋元 これは、“ニセ法主”である日顕が自身への批判を封じるために画策した「法主絶対論」であり、明らかな邪義だ。
 正木 さらに、「但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ」(同1056ページ)との宗祖の御金言に真っ向から違背する、日顕をはじめとした坊主たちの贅沢・遊興三昧の“俗より俗”の堕落しきった姿も明白にされている。
 橋元 知れば知るほど、怒りが湧いてきます。「いよいよ・はりあげてせむべし」(同1090ページ)と御書にある通り、破邪顕正こそ青年部の永遠の魂です。私たちは追撃の手をゆるめることなく、極悪を糾弾してまいります。
 原田 権威の邪宗門の鉄鎖を切った学会は、世界宗教として192カ国・地域に民衆仏法を広げました。ハーバード大学のヌール・ヤーマン博士は、その発展について、こう述べています。「最大の、また、特筆すべき要因は、宗門との決別にあった」「この決別は、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長が普遍的なヒューマニズムに根差した、新たな思想と実践を世界に開きゆく、重要な契機となりました」
 正木 一切衆生の幸福こそが仏の大願です。私たちは大聖人直結の誇りも高く、世界広布の大道を堂々と進んでいきましょう。

   (聖教新聞 2014-02-24)

日本一の幸福の春に輝け

2014年2月24日(月)更新:5
【太陽の励まし 池田名誉会長と誓いの同志(とも) 〈64〉 福井】
 「わが福井よ、『日本一の幸福の春』に輝け! それが私の願いである」
 池田名誉会長は「随筆 新・人間革命」につづった。
 福井は北陸に位置するが、学会においては「常勝関西」の北の砦を担う。
 草創の同志は大阪支部、堺支部などに所属した。
 1956年(昭和31年)、若き池田名誉会長が指揮した「大阪の戦い」の中で広布は伸展し、57年(同32年)7月17日の「大阪大会」にも、多くの福井の同志が参加している。
 名誉会長の初訪問は、総務時代の59年(同34年)3月24日。武生市(現・越前市)の会場に集った1700人の同志に御書を講義し、質問会も行った。
 今春、55周年の佳節を迎える。
 以来、訪問は7度。
 戦後に地震、豪雨、火災などが続いた国土の宿命転換を訴えた。旧習深い「仏教王国」の中で懸命に戦い、宗門の迫害に耐え抜いた同志を守り、励ましてきた。

敦賀の撮影会》
 名誉会長が県南西部・嶺南地域の中心都市・敦賀を再訪したのも、3月だった。
 72年(同47年)3月14日の記念撮影会である。
 福井の名勝・東尋坊に爛漫の桜をあしらった大きなパネルが、目に飛び込んでくる。スピーカーからは、ウグイスやカッコウの鳴き声、小川のせせらぎも。師を迎え、友の心に春がやってきた。
 3500人を12グループに分けての撮影。その合間にも、名誉会長はマイクを取り、また学生や整理役員、アトラクションの出演者の中に分け入るようにして、激励を続けた。
 「自分が今いる、その場所で頑張り抜き、真実の仏法の力を証明していくことが大事です」
 「粘りある明るい団結で、どこの地よりも功徳に輝く福井を築いていってほしい」と。
 会場からは、何度も喜びの歓声が上がった。
 この日、救護役員だった敦賀市の石橋峰枝さん(若狭勝利県)。
 どよめきが聞こえるたびに、会場の様子が気になる。休憩時に、そっと会場の中をのぞきに行った、ちょうどその時である。
 撮影台から撮影台へ移る名誉会長と、ばったり鉢合わせになった。
 石橋さんの白衣姿を見た名誉会長は、「病気の人はいないかい?」と優しく声を掛け、ねぎらった。
 すぐに役員に促され、名誉会長は次の撮影台へ歩いていった。
 瞬間の出会いだったが、「こんな急いでいる時にも、目の前の一人を大切にされるのか」と、その声とまなざしは、きのうのことのように、石橋さんの目に焼き付いている。
 「“一人の患者を大切に”という看護師の姿勢を命に植えてもらった気がします」
 40年間、准看護師を務めた後、現在は学会の支部婦人部長として、地域と同志に尽くす貢献の人生を歩み続ける。

《両手をさすって》
 7度の訪問の中でも、81年(同56年)11月24日、武生文化会館(越前市)に現れた名誉会長の姿を見た時ほど、福井の友が感激したことはない。
 福井は、悪侶の罵声に耐え、黒い陰謀と戦った、第1次宗門事件の激震地の一つだった。
 同月8日、大阪に着いた名誉会長は、9日に四国に入り、“反転攻勢”の激励行を開始する。15日、大阪に戻り、和歌山、奈良、大阪、滋賀を駆け巡った後、いよいよ福井に向かったのである。
 鯖江市に住む新井富美子さん(越前大光県、婦人部副本部長)宅の電話が鳴ったのは24日の夕刻だった。“早く武生文化会館に”という幹部からの連絡だった。
 夫の真一さん(故人)と共に会館に着いた時、午後5時をとうに過ぎていた。県代表会議の参加者は、もう2階の広間の中だ。
 「お父さん、早う!」
 富美子さんが真一さんをせかしながら、靴を下足箱へ入れ、振り向いた時である。
 事務所から出てくる人影が見えた。「“あら、先生によう似てるな”と思ったら、ほんとに先生やがね!」と振り返る富美子さん。
 名誉会長は真一さんを見つけ、歩み寄って手を握った。
 「ご苦労さま!」「冷たい手だね! 冷たい、冷たい!」。駆け付けたばかりの真一さんの手を、両手でさする。
 あわてて富美子さんも駆け寄り、3人で手を重ねるように握手。温かく、柔らかい師匠の手から、同志を思う心が、じんと伝わってきた。
 到着から会合までの間、名誉会長に休む暇はなかった。
 会館の一室で取り組んでいたのは、机一面に並べた書籍に、同志の名を揮毫することだった。
 「まだいないか?」「まだいないか?」
 腕をまくって筆を振るう勢いは、福井の幹部が、名前を挙げるのも追いつかないほどだったという。
 握手の後、新井さん夫妻は名誉会長の後ろに付いて、会場へ階段を上っていった。
 「直前の急いでおられる時なのに、あんなにして、ねぎらってくださって」
 夫妻もまた、名誉会長の一人を大切にする気迫に触れ、それを自身の人生の目標にした。
 真一さんは一級建築士として活躍する一方、地域で区長を8年務めた。
 富美子さんも民生委員を20年にわたって担い、生け花教室を開くなど、地域に信頼を築いてきた。
 「昨年、近所の方に弘教が実ったんです。池田先生の後にくっついて、いつまでも元気で地域のために歩きたい」


《「大きいね!」》
 79年(同54年)9月のある日の深夜、名誉会長は福井に一本の電話を入れた。
 会長辞任の5カ月後。行動を制限され、激励も思うに任せない状況の中、福井の同志が心配でならなかった。
 「皆さんも、悔しいだろう。しかし、こんなことが、いつまでも続くわけがない」
 「仏法は勝負だ。正義は必ず勝つ! 10年後には、はっきりするよ!」
 その勝利宣言の日は10年を1年過ぎた、90年(平成2年)10月22日にやってきた。
 「皆さまは、見事に勝ちました!」
 17年ぶりに県都福井市を訪問し、「日本海3県合同総会」で、高らかに宣言したのである。
 会合の直前、名誉会長は福井の未来部の代表と会った。
 福井と関西の「希望の春」を開くべき、使命の人々の代表である。
 当時、小学6年生の笠松勇志さん(福井創価県)も、高等部・中等部のお兄さん、お姉さんに混じって、会館の3階で名誉会長を待つ、その列に加わった。
 エレベーターの扉が開き、名誉会長夫妻が歩いてくる。
 一人一人、声を掛ける名誉会長の足が、笠松さんの前で止まった。
 左胸に付いているネームプレートに手を掛け、「いいね、これ!」とにっこり。
 はにかむ笠松さんに「何年生?」。
 「6年生です!」
 「大きいね!」と名誉会長は力強く言った。
 実際の笠松さんは、背が小さいほうだった。
 病気がちで、いじめを受けることもあった。「それが、言われた瞬間、心が大きく広がった気がしました。“心の大きい人になろう”と思えました」
 笠松さんは今、男子部本部長。本部未来部長も兼任し、後継の育成に携わる立場だ。
 「隅っこで目立たないようにしている子ほど、励ましを求めているんです。僕自身がそういう子でしたから。そんな僕を、先生は真心で励ましてくださった。その『心』を伝えていきたい。今いる場所で勝利の実証を示したい」
 一瞬の出会いに、思いを込める。一瞬の出会いの意味を考え、生涯をかけて深めていく。これが創価の「師弟」の生き方だ。
 福井の天地には、その歴史と行動が輝いている。
 名誉会長は詠んだ。

  胸と胸
   心と心の
     同志かな
   久遠の家族は
     創価の福井と

   (聖教新聞 2014-02-24)