黒闇の人豈道を論ず可けんや(御書112ページ)!

2011年11月23日(水)更新:5
・斧節『宮田論文に関する覚え書き 5』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111123/
>>いずれにしても創価学会が法難と考えている歴史は情報に偏りがある。それ相応の見識をもった非学会員によらなければ本当の事実関係は藪の中だ。(小野)
●自分の邪義に少しでも合わない経文があると、道理を曲げて、なんとか筋道をとおそうとし、無理に自分の邪義に合わせる。(御書45ページ、通解)
釈尊の在世でさえ、人々は法華経に対して怨嫉が多かった。ましてや像法・末法、更に日本のような辺地においては、なおさらである。山の上に山を積み重ね、波の上に波を重ねるように、難に難を加え、非に非を増すであろう。(御書202ページ、通解)

>>私がもらえる身分であれば「小野桜」となる。(小野)
>>5―4―3 理法と教法
こんな便利な言葉があったとは露知らず。(小野)
>>@小野不一 一つわかりました。先を歩む人が行為→理論という方向性であるのに対し、後に続く人は理論→行為となる。ここに話し手と聞き手の関係性が成り立つ原因がある。送り手と受け手の役割が階級を生む。受け取った情報をどう開き、蘇らせるかが問われる。
●この諸々の悪人は、またこのような経典を読誦するといっても、如来が説こうとする深い意味のある重要な義を消し去ってしまって、世間の飾りたてた、美しいだけで意味のない語を置くだろう。(御書224ページ、通解)