大聖人の誓願は、一切衆生を発迹顕本させることにあったといえよう

2013年2月22日(金)更新:4
・『妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20151225

【新・人間革命 勇将 七】
 発迹顕本――迹を発(ひら)いて本を顕す。仏が仮の姿(垂迹)を開き、その真実の姿、本来の境地(本地)を顕すことを意味する。
 日蓮大聖人が、鎌倉・竜の口で、まさに頸を斬られんとした時、江の島の方向から、「月のごとく・ひかりたる物」(御書九一四ページ)が現れる。その光は、月夜のように明々と人びとの顔を照らした。大聖人を斬首しようとした兵士は、目がくらみ、倒れ伏し、皆、怖じ恐れて、蜘蛛の子を散らすように、逃げ出したのである。
 「近く打ちよれや打ちよれや」(同)と、大聖人が声高に呼んでも、誰も近づこうとはしない。「頸切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐる(見苦)しかりなん」(同)と叫んでも、返事もない。結局、頸を刎ねることはできなかったのである。
 諸天は、大聖人を守護し、大宇宙を動かしたのである。法華経には「刀尋段段壊(とうじんだんだんえ)」(刀は尋(つ)いで段段に壊(お)れなん)とある。
 それは、一切衆生を救済せんとして戦い続けてこられた大聖人が、凡夫という「迹」の姿を開いて、その身のままで久遠元初の自受用報身如来、すなわち末法の御本仏の本地を顕された瞬間であった。大聖人は門下に対しても、次のように仰せである。
 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」(同一三六〇ページ)
 大聖人の仰せのままに、広宣流布に生き抜く創価の同志は、地涌の菩薩であり、その内証は久遠の仏の弟子なのである。
 大聖人の誓願は、敷衍して言えば、御自身が発迹顕本されたように、末法の一切衆生を発迹顕本させることにあったといえよう。すなわち、一人ひとりに地涌の菩薩の使命と実践とを教え、御本仏の弟子として、仏の境涯を顕すことを念願されていたのだ。
 熱原の法難をもって、大聖人が出世の本懐を遂げられたのも、殉難をも恐れぬ、農民信徒の強盛なる信心に、衆生の発迹顕本を御覧になったからであろう。
   (聖教新聞 2013-02-20)