日蓮大聖人の仏法は万人の幸福を実現する下種仏法

【11月度 座談会拝読御書 「曾谷殿御返事」に学ぶ 「不退」の心で広宣流布に前進 師弟の実践こそ成仏の根本】
此(この)法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然(しかれ)どもいまだこりず候 法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり (曾谷殿御返事、1056ページ)

〈本抄について〉
●本抄は、別名を「成仏用心抄」ともいい、大聖人こそが末法における「根源の師」であることを明かされ、正しい師につき、謗法を責めることが“成仏のための心すべき用心”であることを強調されています。

〈解説〉
●大聖人は本抄で、「此法門(このほうもん)」、すなわち、根本とすべき師匠を誤っては成仏できないという法門を説かれています。
●この当時、釈尊は蔑(ないがし)ろにされ、阿弥陀仏大日如来などが広く信仰されていました。大聖人は、敢然とその謗法を責め、大闘争を開始されたのです。それは、人々を正法正義に目覚めさせ、真の幸福と安穏の道を歩ませる宗教革命の大法戦でした。そこに大難が競い起こることは必然でした。
そして「忠言は耳に逆う」の道理のままに、大聖人は流罪に遭い、命の危険に及ぶような迫害を受けられたのです。
しかし、大聖人は「いまだ懲りてはいない」と、厳然と仰せです。それは、大聖人が大難を越えて広布を前進させなければ、末法衆生を救う法が断たれてしまうからです。この仰せから、何があっても広宣流布の前進を止めない大情熱と人々への慈愛が拝されます。
経文に説かれている通り、正法を語れば難に遭います。悪世の中で、真実を語り抜くことほどの難事はありません。しかし、友の幸福を心から願っての対話は、全てがわが生命を飾る福徳となります。
勇気をもって正義を語り抜くことこそ、大聖人の御精神通りの誉れの実践であることを確認したいと思います。
次に大聖人は「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」と、妙法の重大な意義を明かされています。
妙法は、あらゆる人を仏にする根源の仏種です。仏は植え手となって、衆生の心田に成仏への種を植えます。同じように、私たちが妙法を語ることは、相手の生命に具わる仏性を呼び覚ましていきます。折伏・弘教は、友の心に妙法の種を植える“仏の行動”にほかならないのです。
仏性は、あらゆる人の生命に具わっています。そして、妙法に縁することで、無明(根本の迷い)に覆われた仏性が働き始めます。ゆえに、妙法の素晴らしさを人々に語り広げる「下種(げしゅ)」が、人々の成仏の道を開いていくのです。ここに大聖人の仏法の偉大さがあります。
友人の心田に妙法の種を植えれば、その友人が将来、必ず妙法の偉大さに目覚める時がきます。
私たちが実践する仏法対話は、相手の尊極な仏界の生命を開きゆく尊い労作業です。その誇りを胸に、誠実に、粘り強く、仏法を語りに語り、幸福の連帯を広げてまいりましょう。

《名誉会長の指針から》
末法衆生の「本従(ほんじゅう)の師」としての日蓮大聖人の大慈悲を一言に凝結されたお言葉が「いまだこりず候」の一句です。
当時の人々は、釈尊を忘れ、法華経を忘れ、仏教の根本精神を忘れて、阿弥陀如来大日如来を崇めていました。
その転倒を諫(いさ)めたため、「忠言耳に逆らう」の道理のまま、かえって大聖人は流罪され、竜の口の法難にあわれ、命まで奪われようとしたのです。日本中の人々から集中砲火を浴びる状況の中で、大聖人は、毅然と叫ばれました。
「然れどもいまだこりず候」
この大師子吼こそ、赫々たる御本仏の大慈悲の生命の迸(ほとばし)り以外のなにものでもありません。
正義と民衆を守るために身命を惜しまずに悪と戦うのが、末法における「本従の師」の慈悲です。
その戦いによってのみ、妙法の智水は衆生の生命に流れ通うのです。 (2008年8月号「大白蓮華」、「希望の経典『御書』に学ぶ」)
◇ ◆ ◇
下種とは、この仏性の触発を譬喩(ひゆ)的に表現したものです。下種について大聖人が分かりやすく教えられたのが、「曾谷殿御返事」の「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(御書1056ページ) との一節です。
衆生は、植え手に種を植えられた後、自身の心田にやがて大きな実りをもたらします。すなわち、衆生自身が成仏という実りを得るのです。しかし、この譬喩から、仏種は衆生にはなく、仏に下種されて初めて衆生の生命に存在すると考えれば誤解となります。
本当は、衆生自身の中に、もともと仏性があるのです。ただ、それが仏の教法(きょうほう)によって初めて触発され、仏界の生命へと育っていくので、仏によって仏種が植えられたように見えるのです。したがって、仏種というと、衆生の仏性を指す場合と、仏性を触発する力をもった仏の教法を指す場合とがあります。
大聖人は「仏種は縁に従(よ)って起る是の故に一乗を説くなるべし」(同1467ページ)と仰せです。
一切衆生の生命には、もともと仏性という成仏への因がある。その仏性を発動させていく縁となるのが一乗(法華経のこと、末法では南無妙法蓮華経)なのです。 (『池田大作全集』第34巻 「開目抄講義」)
(聖教新聞 2011-11-08)

11月8日更新:2