御書に学ぶ「彼岸」の意義

2012年9月19日(水)更新:3
【教学 御書に学ぶ「彼岸」の意義 学会員の唱題こそ最高の追善】

〈生死の大海渡る“妙法の船”〉
・『生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず』 (椎地四郎殿御書、御書1448ページ)
●「お彼岸」というと、墓参りや先祖供養を思い浮かべる人が多いですが、そもそも「彼岸」とは“向こう側の岸”“対岸”ということで、“こちら側の岸”を意味する「此岸(しがん)」に対する言葉です。すなわち、もともとの仏教の彼岸には、日本の「お彼岸」の意味はありません。
 仏教では、貧・瞋・癡の三毒の苦しみに満ちたこの現実世界を「此岸」に、そして仏道修行によって得る悟りの境涯を「彼岸」に譬えました。また、「彼岸」には、成仏の境涯とともに、「倒彼岸(とうひがん)」、つまりそこに到る「修行」「実践」の意義も含んでいます。
 多くの仏教では、何度も生まれ変わって修行を重ね、その結果として初めて成仏するという「歴劫修行」によって、彼岸を目指すことを説いていますが、日蓮大聖人の仏法は、そうではありません。
 「生死の大海を渡るのは、妙法蓮華経の船でなくては、かなわないのである」(御書1448ページ、通解) 「妙法蓮華経の船」に乗る、すなわち成仏の根源の法である南無妙法蓮華経を唱え、広布に生き抜くことで、この一生のうちに生死の大海を越えて、悟りの境涯を開く(=彼岸に到る)ことができるのです。


〈題目の功徳を回(めぐ)らし向ける〉
・『法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向(えこう)の文此れより事起るなり』 (御義口伝、御書712ページ)
●「追善回向」とは、“自分の積んだ仏道修行の功徳を、先祖や故人に回(めぐ)らし向ける”ことを意味します。
 「御義口伝」には「法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱えるとき、題目の光が無間地獄にまで至って、即身成仏させる。廻向の文は、ここから事起こるのである」(御書712ページ、通解)と仰せです。
 私たちは日々の勤行の祈念のなかで「先祖代々ならびに会員・友人の諸精霊追善供養のために」と、先祖をはじめ、自分に関わった故人に対して追善供養を行っています。真剣な題目の光が、故人を包み込んでいく――その意味で、学会員の朝晩の勤行・唱題は、「常彼岸(じょうひがん)」の実践といえるでしょう。
 その上で、学会では、「随方琵尼(ずいほうびに)」(仏法の本義にたがわないかぎり、各地域や時代の風習に従うべきであるという考え方)の観点から、春と秋に「彼岸勤行法要」を行っています。
 信心をしていない方々も会館等に集って、皆で先祖、友人・知人を追善する学会の彼岸勤行法要に、共感の輪が広がっています。


〈先祖代々、子孫末代まで仏に〉
・『目蓮尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う』 (盂蘭盆御書、御書1430ページ)
●三世を貫く生命の法則を説き明かしたのがこの妙法です。
 ゆえに御本尊を信じて広布に励む功徳も、三世に及びます。
 日蓮大聖人は、盂蘭盆を前に御供養の品を届けた門下に対し、信心の功力の大きさを次のように述べられています。
 「目蓮尊者が法華経を信じられた大善は、目蓮尊者自身が仏になっただけでなく、目蓮尊者の父母も仏になられたのである。また上七代、下七代、上無量生、下無量生の父母たちまでも、思いがけなく成仏されたのである」(御書1430ページ、通解)
 また、別の門下に送られたお手紙では、「この功徳は、あなたの父母や祖父母、さらに無量無辺の衆生にも及ぶであろう」(同1231ページ、通解)と仰せです。
 広宣流布という「大善」に生き抜く以上に尊い人生はありません。
 創価学会という仏意仏勅の教団の中で、自らが「行学の二道」の実践に勇んで励んでいく時、その功徳によって自分自身の成仏はもとより、先祖代々、さらには子孫末代までも仏になることは、大聖人の御聖訓に照らして間違いありません。


〈謗法への供養は堕地獄の因〉
・『まことの心なれども供養せらるる人だにも・あしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる事候』 (窪尼御前御返事、御書1486ページ)
●葬儀や法要などの化偽を悪用することで、醜い金もうけをしているのが日顕宗です。
 日顕宗は、“坊主を呼んで追善しなければ、先祖は成仏しない”“塔婆を立てないと追善回向できない”などと主張していますが、これらは御書のどこにも書かれていない邪義です。
 日蓮大聖人は、堕落した僧侶を「食法がき」(御書1111ページ)と厳しく破折されました。
 「お経回り」と称して檀家の家を回り、僧侶の読経をありがたいものだと思わせて供養を稼いだり、さまざまな理由をこじつけて多数の塔婆供養を強要したりしている日顕宗坊主は、まさに大聖人が弾呵された「食法がき」の姿にほかなりません。
 大聖人は「たとえ真心ですることであっても、供養される人が悪ければ功徳とはならず、かえって悪道に堕ちてしまう」(同1486ページ、通解)と教えられています。
 日顕宗への供養は、全て「謗法への布施」となり、かえって堕地獄の因となるのです。


《名誉会長の指針から》
 日蓮仏法には、儀式や形式に縛られる窮屈さや偏狭さはない。心を広々とさせ、伸び伸びと大宇宙の運行のリズムに合致しながら、意義深き人生の四季を飾り、福徳の生命の年輪を刻みゆく正道が示されているのである。
 「彼岸」においても、大事なポイントは、一体、何か。
 仏法の本義に立ち返るならば、「成仏の境涯(彼岸)」へ向かって、自分自身も、そして一家眷属も、より希望に燃えて前進していくことこそが、眼目なのである。
 戸田先生は、彼岸に関連して、正しい仏法のあり方を、さまざまに語り残してくださっている。そのまま、ご紹介させていただきたい。
 「彼岸といいお盆といい寺に詣でる者多く、あたかも日本は仏教隆盛の国のようにみえる。しかるにその真実は仏法の形骸のみあって真の仏法はない」
 そして先生は、日々の学会活動にこそ、「彼岸に到る」道があると教えられた。日々の倦まぬ実践の積み重ねだけが、自身を幸福の彼岸に運んでくれることを強調しておられた。
 “全同志を、幸福の彼岸へと導きたい!”――これが、戸田先生の叫びであった。また、創価三代の心である。 (2006年9月19日付 「池田名誉会長『霊鷲山』と『彼岸』を語る」)
   (聖教新聞 2012-09-18)